東海道を歩く(東海道五十三次) / 放浪日記

 #第25日目|石部−大津 平成14年(2002)6月1日(土)

放浪日記第二十五日目MAP|石部−大津

平成14年(2002)6月1日(土) 東海道第25日目:石部−大津 天気:晴/曇り(超暑い)

石部宿付近「灰山」を越える道・下道〜えらい目に遭いました(>_<) この日の朝、目覚まし時計は、久しぶりに仕事をすることなく朝を迎えた。私は、久しぶりに目覚まし時計の鳴る前に目覚めることに成功したのだ〜!と、朝からこんなにテンションが高いわけがなく、しかしながら、心の中には一つの決意を持ちつつ、支度をして家を出た。時間にして5時22分・・昨年末の今頃の時間はまだ真っ暗であったが、日はまだ昇っていないものの、辺りはすっかり明るくなっている。
電車を乗り継いだ私は、新横浜駅に到着し、東京からやってきたのぞみ1号に乗り込んだ。それから2時間後、私は京都駅に到着し、そこから在来線を乗り継いで、前回旅を終えた石部駅に到着。ついに、最後の東海道放浪を実行に移すべき時がやってきたのだ。はやる気持ちを抑えつつ、ゆっくりとその第1歩を踏み出した。時間にして、9時ジャストであった。


まずは駅を離れて、旧東海道に合流する。T字路を右に曲り、一路京都に向けて歩き出す。最初の頃は、足の心配ばかりしていたものだが、今となってはさほど気にならなくなっている。靴、靴下など、それだけしっかりと準備をしてきているからである。この旅で成長したことの一つだ。
少し歩くと、左前方に茶色い地肌をあらわにした山が見えてきた。これがかつての町の名残でもある『灰山』だ。この灰山付近を通過するのに、2つの道があった。一つは、このまま道なりに鉄道・川沿いを歩いていく「下道」で、もう一つは灰山をぐるっと廻るような「旧和中散本舗〜うーん・・中を見たかった上道」。「上道」は、その昔「下道」が川の氾濫のために使えなくなったため出来たそうであるが、今ではこの「上道」を利用する人は数少ないだろう。そこに私は目をつけた。そう、この「下道」沿いに走っている道路は歩道がなく、その上、車はビュンビュン飛ばすのでこれを回避しようと思ったのだ。そうと決まれば善は急げ、さっそく私は道を左に曲り、「上道」を歩き始めた。これがえらいことになろうとは知らずに・・。
道を逸れた私は、誰もいないのをいいことに、おにぎりをほおばり始める。端から見れば、みっともないことだろうと思いつつも、結構病みつきになってる自分がいることに気づく(笑)
テクテクと歩いていると、道はいつの間にか登りにさしかかっていた(写真上)。そして後悔(笑)いや、笑い事じゃなく、確かに車は一台も通らなかったが、どこまでも登りが続いていたため、歩き始めて30分も経っていないのにすでにバテ気味であった。
そんな登りもようやく終わり、今度は軽い下り道が始まった。高速道路下をくぐり道は右へ。するとこの辺りがまた最悪で、大型トラックがたくさん通る道だったのだ。結局ろくなことがないまま下道と合流したのであった。
旧東海道と合流した私は、すでにバテ気味であったが、水分補給をしつつ先を目指すことに。この先は平坦な道が続く。右手には近江富士と呼ばれる三上山がそびえ立ち、周辺には青々とした田んぼが広がっている。日本の原風景を見た感じだ。
草津公民館〜その節はお世話になりましたっ(^-^)大きな見どころがないまま道は続く。歩き始めてから40分後、最初のポイントにぶつかった。『旧和中散本舗』というところである(写真上)。「和中散」とは、主に胃腸薬として重宝され、家康が腹痛をおこしたおりにこれを飲んで回復をした時に「和中散」と名付けたと言われている歴史があるところである。また、かの有名なシーボルトも2度ほど立ち寄ったとのことだ。
ここは、予約すれば見学が可能だということで、前回の旅もここを見たいがために早めに切り上げたのだった。今回の旅の日程が決まった時点で、すぐに建物内部の見学をさせて頂くように電話をしてみたら、その日は生憎ダメだという答えが返ってきた。地元でなんかあるらしく誰もいないからだとのことだが、そんなに時間をとらせないからちょっとでも見せて欲しかった。まぁ、今更言ってもしょうがないので、とりあえず写真に収めて早々にその場を後にする。
その後、立場や一里塚跡があるはずの所を通り過ぎるがそれらしいものは発見できず。暑さで朦朧としていたのかも。それほどこの日は暑かった。この日の夜のことだが、ホテルでテレビを見ていたら、京都で30度の夏日を記録したとのこと・・きっと私が歩いていたところも同じくらいの気温だったのだろう。どうりで暑いわけだ・・。
そんな強烈な日差しの中を歩き続ける。JR手原駅近くにある『稲荷神社』の前で、絵を描いている一人の男性を見かけた。どんな絵を描いているのかわからなかったが、熱心に絵を描いていた。草津宿本陣〜街道上の貴重な歴史的遺構ですっ
さらに歩き続け、『足利義尚の鈎の陣の石碑』のすぐ裏手が土手になっており、そこを登ってみると、大きな上鈎池という池が拡がっていた。こんな町中にこんな大きな池があるのは珍しいなぁ・・。この辺りには、他にもいくつかの池が点在しているらしい。これも琵琶湖と関係でもあるのだろうか・・。
道はさらに続く。かなりの炎天下に加えて、人間のきわめて正常な生理現象が起きてきた。どこかにトイレがないか・・・しかし、この道沿いにはしばらくコンビニもお寺もなさそうだ。とりあえず我慢するしかない。そう思った私は、あまり周りを見る余裕もなくなり、不本意ながらひたすら先を目指すこととなった。
この間、車の通行量が多かったためか、はたまた見所がなかったためか、それとも気持ちが体の下腹部の方にいっていたためかわからないが、あまり写真を撮らなかった。そして、それから約4q、時間にして1時間弱、道はそんな私に構うことなく、いつしか天井川の『草津川』を渡り、家々の合間を縫うように狭いながらも先に続いていた。
そして、前方が開けてきた時、そこが中山道との分岐点である追分であることがわかった。と、その時追分の所に建っている一つの建物、「公民館だっ」(写真上)。それを視界に捉えた私は、迷うことなく建物に入っていった。おばちゃんに「トイレ貸してください」と言うやいなや、おばちゃんは快諾してくれたばかりか、親切に場所も教えてくれた。ふ〜やっとホッと一息。おばちゃんによくよくお礼を言った私は、公民館を後にした。
弁天池〜草津周辺にはこのような池が点在しています再び追分へ。今度はゆっくりと『追分道標』を写真に収めつつ、順番に今来た東海道江戸方面、中山道方面、そしてこれから京に向かう東海道+中山道を見てみた。日本橋へ続く中山道方面は、天井川の草津川の下をトンネルでくぐった先に続いており、まだ見ぬ街道の一端を垣間見た感じで、ワクワクしてきてしょうがなかった。しかし、今は東海道を踏破することが最大の目標だ。中山道はまたいずれ・・そう思った私は、くるっと向きを変え、一路京に向けて歩き始めた。
この辺りはすでに東海道52番目の宿場である『草津宿』中心部なのだが、非常に自転車が多い。車が走っていない分、自転車が右に左に往来している。この辺りの人の足は、自転車なのだろうか。そんな自転車達を横目に、『草津宿本陣』に到着(写真上・写真館)。
草津宿本陣は、江戸時代の本陣の様子を現代に伝えている国の指定史跡ともなっており、東海道沿いでは、ここ草津と二川にしか存在しない貴重な遺構である。写真に収めた後、さっそく中に入ると受付でおばちゃんが話しかけてくる。神奈川から来たことを伝えると、「遠いところからようこそ。ゆっくりしてって下さいな」と言ってくれた。おばちゃんにお礼を言って、さっそく中へ。入り口で靴を脱ぐのだが、一足も靴がなかったので独り占めだ〜やったっ!
瀬田の唐橋〜夕景が良い感じのようです♪写真撮影の許可ももらっていたので、さっそく中に入ると、パシャパシャと撮り始める。そして、中を順繰りと見学することに。興味深かったのは、大福帳に新撰組のメンツの名前を見ることができたこと。特に、決して仲が良いとは言えなかった土方歳三と伊東甲子太郎らの名前が並んで載っていたこと(写真館)。あの大福帳に記載してあった文字は、本人の直筆なのであろうか・・そうだとしたらかなりの達筆だ。結局謎は謎のままこの場を後にした。
次に、ちょっと行ったところにある『草津宿街道交流館』を見学。ここは、当時のものが陳列してあり、昔の問屋場の様子を3Dで再現してみたりとなかなか面白かったが、変わった夫婦がウキャウキャと騒いでいたので、あまりゆっくりすることなく先を目指すことにした。
草津宿に別れを告げると、ひたすら歩くことに。『立木神社』、『矢橋道標』、『野路一里塚跡石碑』等を見つつ先を進むが、あまりの暑さのため『野路萩の玉川』に休憩スペースがあったので休んでいくことに。昔から現在までコンコンと水がわき出ているところだそうで、この日も水が次から次へと湧き出ていた。
途中で買ったオニギリをほおばりつつ、風に吹かれてのんびりする。道を歩いている時は、このひとときがとても気持ちよい。特に、今日のような暑い日には、とても貴重な時間となる。そこまでして何故歩くのかと言われてしまえばそれまでなのだが、一度始めたことは最後までやり遂げることが大事なのだ。そして、その時が着々と近づいてきている。
東海道は、現在の鉄道駅構内を通過しています−石山駅充分休憩した私は、再び歩き始めた。道は、とぎれることなく続いており、左に大きな弁天池を見つつさらに歩き続ける。そして、いつしか草津市から大津市へと突入していた。これで残る自治体は京都府京都市を残すのみとなった。
「野路萩の玉川」から1.5qほど歩いただろうか。次に見ようと思っていた月輪寺への入り口の案内石碑らしきものを発見したので、当然のごとくそれを信じて道を曲がると・・寺はないどころか迷ってしまった。仕方がない・・近くには、月が落ちたと言われる月輪池があるはずだ。それを目指そう・・と、道を右へ右へと歩いていくと、公園らしきところにぶつかった。とりあえず公園に入ると、人がわんさかといた。奥の方に歩いていくと、月輪池らしき池を発見。そのまま、池の周りをぐるっと歩き、ようやく旧東海道に復帰。この間に、かなりの体力を消耗してしまっていた。グッタリしたまま先を目指すことに。
それでも、水分補給をしつつ、なんとか西を目指す。今日は、出来れば大津まで行っておきたい。最終日は、のんびりとゴールをしたい。その思いが、足を右・左・右・左と動かしているように思えた。右・右・左・左と進まなかっただけましか(爆)
道を歩き続けると、大きな通りにぶつかった。そのまま左折し、さらに歩き続け、T字路を右へ。そこから少し歩くと前方に橋が見えてきた。これが俵藤太秀郷の百足退治で有名な『瀬田唐橋』である(写真館)。瀬田唐橋は、夕景で有名であるがまだ時間は早い。出来ればその景色を見てみたいのだが、それはまた次の機会にとっておくことにして、今日は先を目指すことにした。
琵琶湖にかかる近江大橋〜確か有料橋だと・・橋を渡り終わった後、再び暑さ対策のため近くのコンビニで水分補給をすることに。グビグビ〜ふひー(←決してビールではない(笑))・・よし。頑張るぞー!気合いを入れ直した私は、再び歩き始めた。ここから道は北向きに。
それにしても、この日は空気が濁っている。どうやら光化学スモッグのようだ。デリケートな私は、どうやらこの魔物にやられたらしい。思いっきり息を吸うと、咳き込んでしまう。これがため、暑さに加えてもう一つ問題が発生した。足の心配をするどころではない。石山駅に続く商店街をテクテク歩き続けるが、暑さとこの光化学スモッグのためにさすがにバテ気味。石山駅前の広場で再び休憩していくことにした。
6月の頭にもかかわらず、すでに夏と言っても過言ではない日差しだ。しかし、そんな弱音ばかりを吐いてはいられない。十二分に休憩を取った私は、再び歩き始めた。
まずは、ちょっと旧東海道から逸れて、今井兼平のお墓を見に行った。今井兼平は、木曽義仲に最後まで従った家臣である。大きな『石碑』を見た後、再び石山駅前に戻り旧東海道を歩き始めた。
膳所城手前にある市民センター・・・近くにあった膳所城よりお城らしいって・・(笑)この辺りは、一部松並木の名残が見られる箇所があるが、ほんの気持ち程度である。そして道は右に左にと交互に曲がりながら北に向かって続いている。
角にコンビニ・ローソンがあるところで左へ。曲がってすぐの所にあった『膳所神社』を見学した後、再び引き返して、そのまままっすぐ膳所城跡を見に行く。膳所城跡手前にあった市民センター、なんとてっぺんがお城の天守閣のような造りに(写真左)・・・そんなところに金をかけるのか?(笑)それに比べて、『膳所城跡』・・門のみは立派であるが、元城跡はただの公園と化していた。その公園の中では、釣りをする人、湖際で遊ぶ子供、ダンスの練習をする高校生など多様な人で溢れかえっていた。琵琶湖が全面に拡がっていたので(写真上)、せっかくなので再び休んでいくことにした。<この日は休憩ばっかり(笑)
風に吹かれながらもほんのわずかであるが疲れがとれてきた気がしてきたので、休憩後、再び歩き出した。もう少し歩けば大津宿・本日の終着点である。まだ日は高い。この分でいけば、もしかしたら行けるかもと思っていたお寺を訪れることが出来るかもしれないという気持ちが強くなってきた。
そのお寺とは、先ほどの駅名にもなっていた「石山寺」と「三井寺」というところである。この2つの神社、実は高校の修学旅行の際に訪れたのだが、お寺の記憶がまったくないのだ。覚えていることと言えば、石山寺で狭い石のトンネルを友人がくぐり抜けようとした際にズボンのお尻の部分がやぶけたことくらいだ。義仲寺境内〜落ち着いた雰囲気を醸し出していましたどうでもいいことばかり覚えている(笑)だからこそ、再び訪れて記憶の中に収めたかったのだ。
その思いからか、自然足が早歩き気味になる。道をクネクネと曲がりつつ、ひたすら歩き続ける。途中、琵琶湖畔にそびえ立つ大津プリンスホテルを横目に、さらに先へ。そして、この大津宿付近の一つの目玉スポットと思っていたあるお寺に到着。ここは、『義仲寺』と言い、先ほどの今井兼平の親玉である『「木曽義仲」のお墓』があるお寺である(写真右・写真館)。さらに、木曽義仲の生き方に共感した、奥の細道で有名な『松尾芭蕉のお墓』もここにあるのであった!公開している時間ギリギリに到着し、お金を払って中へ。時間帯が遅かったためか、観光客は誰も中にはおらず、一人で落ち着いた空間を独り占めすることができた。
境内には、『義仲のお墓』、『芭蕉のお墓』、お堂等に加えて、芭蕉を初めとした多くの俳人の句碑が建てられていた。それらを見つつ、境内をくまなく見て廻った私は、受付のおじさんにお礼を言って、お寺を後にした。
道は、まっすぐ西に向かっていた。そのため、真っ正面から西日を浴びる形になった。しかし、それでも先ほどよりだいぶ日差しも弱まってきている。段々と日が暮れかかってきている証拠だ。
大津市の公共施設〜琵琶湖文化館〜なんだかなぁ・・(笑)テクテク歩いていると、いつの間にか『大津宿』の中心部、すなわち現在の大津市の中心地に入っているようだ。左手には立派な県庁、右手にはこれまたお城と勘違いさせてくれる琵琶湖文化館など(写真左)、大津市は公共施設へのお城化にこだわっているのだろうか・・(笑)
そして、JR大津駅に曲がる道でこのまま終えようか迷った。迷ったが、まだ日もくれていないので、先ほどから考えていた石山寺か三井寺に行こう!「石山寺は、ここから電車に乗っていかないといけないが、三井寺は頑張ればこのまま歩いていけるところにある。よし、三井寺に行ってみよう。」そう思い立った私は、さらに歩き始めた。これが悲劇の始まりとも知らずに・・。
三井寺に行くには、当面はそのまま旧東海道沿いを進む。明日再び歩く道であるから、写真はあまり撮らずにひたすら先を目指す。途中、路面電車も走る大きな通りで旧東海道と別れて、裏道を進む。この辺りは、昔からの家並みが比較的残っているように感じた。
しかし、歩みを遅めずに歩いていたのだが、なんだかんだ言って迷った(爆)何故って、三井寺への地図を持っていなかったから。それでも、道の途中にある道しるべを頼りにひたすら歩き続ける。しかも、少し焦っていた。もしかして、拝観料を払うようなところだと、閉まってしまう可能性があるからである。時間は、16時過ぎ・・微妙な時間であった。
三井寺・・・境内を見学したかったよぉ〜とりあえず本日の最終地結局それから30分以上もかけてようやく『三井寺』に到着。まさかこんなに距離があろうとは・・(涙)。しかし、車はすでに一台も止まっていない。イヤな予感がしつつも門に近づく。すると、危惧していたことが現実となって門の横に受付があった。が、誰も人がいなかった。このまま黙って中に入ってしまうこともできたが、やはり良心がとがめてしまい、結局門を見ただけで三井寺を後にすることにした(写真右・写真館)。後悔先に立たずであるが、どこかでチェックをしておけば良かった・・。
脱力感を味わいつつ、一番近い駅に向かって歩き始めた。10分ほど歩いて駅に到着したがちょうど目の前を電車が駅から出発していくのが見えた。さらにがっくり・・この電車は最終目的地のホテルがある駅まで行かない路線だったので、そのままJR大津駅まで歩いちゃれ!と、もう半分やけになって歩き始めた。
結局大津駅に到着したのが18時過ぎ・・今日は早く寝て明日に備えるのだ・・・ボロボロになりながらも次の日のことを考えている前向きな姿勢を見せたのが最後の意地でもあった。(つづく)
→第26日目 大津−三条大橋


歩数計 42,499歩
カロリー 1,768.0kcal
距 離 25.50km
時 間 9:00〜18:19
支 出 交通費|13,930円
飲食費|2,496円
その他|520円(施設見学料)


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