東海道を歩く(東海道五十三次) / 歴史探訪


東海道:草津宿〜大津宿
野路の玉川 野路の玉川
かつて、鎌倉の時代には、この辺りが当時の中心地だったそうです。しかし、その後中心地は草津へと移っていきました。
かつては、歌に詠まれたほど萩が一面に植えられていたそうで、豊富な伏流水もわき出していました。現在は、その量こそ減ったものの、こんこんと水が湧き出ています。

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月輪池立場跡 月輪池の立場跡
月輪池の立場跡碑です。この碑の向こう側には、月輪池が拡がっています。(※中山道歩きでここを通過したら、道路工事中で石碑がなくなっていました:2004.09.18)

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一里山一里塚跡 一里山一里塚跡
江戸から数えて120番目の一里塚跡です。
この一里塚碑は、江戸から京へ向かう人には、見づらいところに建てられています。(写真で言うと、左の道が旧東海道で、奥から手前に来るのが京への方向になります)

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瀬田の唐橋 瀬田の唐橋
近江八景「瀬田の夕照」で知られている日本三大名橋の一つです。古来から軍事上の要地となり、幾多の戦乱や俵藤太の百足退治伝説の舞台にもなりました。
(→写真館

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雲住寺 雲住寺
瀬田の唐橋近くにあります。

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秀郷社 龍王宮秀郷社
俵藤太秀郷の百足退治伝説にちなむ神社です。
俵藤太が龍神の頼みにより、大百足を退治したという伝説があります。

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今井兼平の墓 今井兼平の墓
木曽義仲に最後まで従った家臣の一人・今井兼平のお墓です。今井兼平は、木曽義仲の幼なじみで、兄弟のように育ったそうです。義仲の妻・巴御前は彼の妹です。
今井兼平は、義仲を逃がすため、追ってくる敵と戦い、壮絶な最後を遂げました。
お墓は、NEC工場裏の住宅地にひっそりとたたずんでいました。

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粟津の番所 粟津の番所
かつて、ここに番所があったようです。現在は石碑のみ。(写真では、中央右に小さく写っています)

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若宮八幡神社 若宮八幡神社
壬申の乱の3年後(675)天武天皇の命により創建されました。

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膳所神社 膳所神社
社伝によると、天智天皇が大津の宮に遷都の際、この地を御厨所と定められました。
現在、表門(おそらく写真の鳥居奥に写っている門)はかつての膳所城の城門で国の重要文化財に指定されています。

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膳所城跡 膳所城跡
関ヶ原の合戦後、徳川家康がはじめに築城を命じた膳所城、堀に琵琶湖の水を引き入れた美しい水城だったそうです。
現在は、当時の面影はなく、入口部に復元された城門らしきものを残すのみで、地元住民の憩いの公園となっています。ここからの琵琶湖の景色は良かったですよ〜。

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膳所城北総門跡 膳所城北総門の跡
かつての膳所城北総門の跡です。上記の城門から結構離れたところにあることから、お城がいかに大きかったかがわかりますね。

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2002.10.22update


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