東海道を歩く(東海道五十三次) / 歴史探訪 | |
東海道:大津宿〜三条大橋 |
大津宿 東海道53番目の宿場です。東海道53次の中では、最後の宿場にあたります(日本橋から京に向かう時)。 琵琶湖の南端に位置する交通の要衝で、古代より大きく栄えました。現在は、昔ながらの街並みが残りつつも、近代的な建物も整備されつつあり、過去と現在の入り交じった街並みが形成されています。 今来たところへ戻る△ |
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義仲寺 義仲寺は、源平合戦で討ち死にした木曽義仲の菩提を弔うために、愛妾の巴御前が草庵を結んだところにはじまります。 現在は、旧東海道沿いにあり、境内には義仲のお墓、そしてその隣には松尾芭蕉のお墓があります。芭蕉の遺言により、ここに葬られました。又玄(ゆうげん)という俳諧者が「木曽殿と背中合わせの寒さかな」と詠んでいます。 昭和42年、文部省(現・文部科学省)により境内全域が国の史跡に指定されました。 (→写真館) 今来たところへ戻る△ |
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巴塚 義仲寺境内にて。 木曽義仲の愛妾・巴御前の塚です。巴御前は、武勇すぐれた美女で、武将としても義仲を助けたと言われています。 今来たところへ戻る△ |
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義仲公墓(木曽塚) 木曽義仲のお墓です。 芭蕉は、ここを訪れて、以下の二つの句を残しています。 「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」 「木曽の情 雪や生えぬく 春の草」 今来たところへ戻る△ |
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芭蕉翁墓 芭蕉のお墓です。 芭蕉は、元禄7年(1694)10月12日午後4時頃、大阪の旅舎で亡くなりました。享年51歳。遺言に従って遺骸を義仲寺に葬りました。 今来たところへ戻る△ |
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露国皇太子遭難地碑 明治24年(1891)、ロシア皇太子ニコライが大津訪問中、警備中の巡査津田三蔵に斬りつけられました。ニコライは軽傷でしたが、政府は外交上死刑を裁判所に要求。しかし、大審院は刑法の解釈から無期徒刑を言い渡しました。 このロシア皇太子が斬りつけられた場所に石碑が建っています。 今来たところへ戻る△ |
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札の辻 ここは、東海道と北国街道との分岐点であり、京都からきた東海道は東へ向かい、西に向かうと北国街道でした。札の辻の名は、江戸時代、幕府の法令を記した高札が建てられた四つ辻にあったことに由来しているそうです。 ちなみに、「北国街道」は、「北国海道」とも呼ばれるようです。 今来たところへ戻る△ |
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長等神社楼門 この楼門は、明治37年5月に起工され、同38年2月に竣工しました。室町時代頃の様式に乗っ取った秀作と言われ、明治時代の楼門の代表作と言われています。三井寺の南方にそびえ立っていました。 昭和47年に大津市の指定文化財になっています。 今来たところへ戻る△ |
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三井寺(園城寺)−大門(仁王門) 三井寺は、正式には「園城寺(おんじょうじ)」と呼び、天台寺門宗の総本山です。奈良時代、大友皇子の子である大友与多王に よって建立されたといわれています。近江八景の「三井の晩鐘」にも描かれている歴史のあるお寺です。 なお、写真の門は、園城寺大門(仁王門)で宝徳4年(1452)に石部町の常楽寺に建てられ、その後伏見城に移され、さらに慶長6年(1601)徳川家康の寄進によって園城寺に移されました。 明治33年に国の指定文化財になっています。 (→写真館) 今来たところへ戻る△ |
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大津宿本陣跡 大津宿の本陣跡です。かつて明治天皇もこちらに宿泊されたとのことです。 今来たところへ戻る△ |
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関蝉丸神社下社 京阪電鉄の踏切を渡った先にあります。この付近には、蝉丸神社が3つあり、これは一番江戸寄りにある下社です。 今来たところへ戻る△ |
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安養寺 本堂には、重要文化財行基作の阿弥陀如来座像が安置されているそうです。 また、境内にある立間観音は東海道名所図会絵などにも記載されているそうです。 今来たところへ戻る△ |
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2002.11.9update
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