東海道を歩く(東海道五十三次) / 歴史探訪 | |
東海道:石部宿〜草津宿 |
石部宿 東海道51番目の宿場です。 「京立ち石部泊まり」と言われ、京から江戸へ向かう時、最初の宿泊地となったのがこの宿場でした。ちなみに、これを江戸から京へ向かう時に当てはめてみると、戸塚宿になります。 ここは、今でも昔ながらの落ち着いた街並みが見られます。ただし、史跡はほとんど残っていません。 今来たところへ戻る△ |
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吉姫神社 吉御子神社と対の関係にあり、5月1日の例祭にはそれぞれのみこしが町内を巡幸します。 かつて草相撲や花相撲が行われていたと伝わる境内には、南北朝時代の作とされる木造狛犬、万病に効くという宮前の湧き水があります。 今来たところへ戻る△ |
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石部宿小島本陣跡 石部宿内の小島本陣跡です。数多くの大名や、明治天皇なども宿泊した本陣でしたが、建物の老朽化に伴い、昭和43年に取り壊されてしまったそうで、今は石碑と説明板が残るのみです。 この本陣跡があるあたりは、昔ながらの街並みが見られるところでもあります。 今来たところへ戻る△ |
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吉御子神社 吉姫神社と対の関係にあり、厄除け・安産・交通安全の守護神として信仰されています。 吉姫神社の女神様に対して男神様とされています。 今来たところへ戻る△ |
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灰山 石部宿を出たあたりは、石部金山と呼ばれており、銅などが算出されたそうです。その後石灰など採掘し、その名残がこの山です。 今来たところへ戻る△ |
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膳所藩領傍示石 「膳所」とは、かつての膳所城があったところの地名で、現在も大津市内の京阪鉄道の駅名にもあります。そのかつての膳所藩の境がこの石のあるところだったのでしょう。ここから膳所まではかなり距離があるので、相当の広さをもった藩だったんですね。 今来たところへ戻る△ |
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旧和中散本舗 「和中散」という薬は、徳川家康の腹痛をたちまち治したことから、家康が直々につけたものと言われています。 ここは、建物内部の見学が可能ですが予約制となっています。私も予約をしようと電話をしたらすげなく断られました。なんだかな・・。 今来たところへ戻る△ |
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大角家住宅隠居所 上記建物の正面にあり、江戸時代中期に建てられたそうです。上記建物を大名などが休憩場所として使っていた際に、大角家の家族がこちらで住んでいたとのことです。 今来たところへ戻る△ |
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肩替えの松 西厳寺前にある松です。 何故この名がついているのかは不明です。 今来たところへ戻る△ |
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里中大明神(稲荷神社) 寛元3年(1245)、馬淵広政なる人物が、この地を領して勧請させました。 この神社前に建つ建物を一生懸命写生してる男性が居ました〜。 今来たところへ戻る△ |
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旗本代官邸 かつての旗本代官のお屋敷のようですが、詳細は不明です。しかも、内部見学も不可だとのことで、外観からしてもちょっと気になる建物です。 今来たところへ戻る△ |
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すずめ茶屋跡 すずめ茶屋という休息所があったところに石碑が建っています。 現在は、住宅地の横にひっそりと石碑があるのみで、時代の流れを感じます。 今来たところへ戻る△ |
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「鈎の陣」石碑 室町幕府は、応仁の乱後勢力が衰えて、社会が乱れました。 そんななか、近江守護職佐々木高頼は、社寺領等を領地としました。幕府の返還勧告に応じない佐々木氏を討伐のため時の9代将軍足利義尚は、長亨元年10月近江に出陣し、鈎に本陣を構えました。 しかし、滞陣2年あまりが過ぎ、病を患い延徳元年3月25歳の若さで当地で陣没しました。 実際の本陣を構えた場所は西に約300メートルほどいったところだそうです。 今来たところへ戻る△ |
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目川立場 かつての目川立場があったところです。 ここの名物は目川田楽というもので、豆腐の味噌田楽と菜飯で、かなり人気があったようです。 やがて京や江戸で類似店が展開するほどであったそうです。 今来たところへ戻る△ |
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2002.9.29update
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