東海道を歩く(東海道五十三次) / 放浪日記 | |
#第21日目|内部−亀山 平成13年(2001)12月22日(土)
平成13年(2001)12月22日(土) 東海道第21日目:内部−亀山 天気:晴・曇・時々雨 |
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前回の放浪からたった1週間・・・私は再び放浪に行くことになった。 実はこれは、前回の放浪の時からすでに視野に入っていたことでもあった。本当は、年末の仕事納めの次の日から行こうと思っていたのだが、「年末は帰省ラッシュにぶつかるかも・・」と、急遽1週間早めて行くことにしたのだ。そして、これが効を奏すことになるとは、この時はそこまで予想だにしていなかった。 朝、始発電車を乗り継ぎ東京駅に到着。例のJR東海が行っている企画割引切符を購入(今回は、なんと5割引で往復新幹線に乗れるのだっ!)し、さっそく新幹線ホームへ。ところが、なんと、まだ朝の6時前にもかかわらず、新幹線内の2列席の窓際は全て埋まっていたのだ。結局3列席の窓際に座ったのだが、ちょっと残念であった。何故かというと、3列席側からだと富士山を見ることができないからである。 結局、席の半分くらいを埋めた新幹線ひかり号は、これまでにない多くの人を乗せて一路西へ向けて走り始めた。 東京を出てから2時間が過ぎ、名古屋に到着。そのまま近鉄に乗り換えて揺られること30分、もう顔なじみの四日市駅に着き、再びローカル近鉄に乗り換えて、前回旅を終えた内部駅に到着。ここでは、思ったより人が降りた。しかも、その中には旧東海道ウォーカーらしき男性が2名ほどいた。一人は、私が見たことない地図を片手に持っている。この人達もこれから旧東海道を歩くのかなぁ〜と思っている間もなく、彼ら二人は競うように揃ってそのまま歩き始めてしまっていた。え?・・万歩計とかはリセットしないのかなぁ・・と素朴な疑問が浮かんでいた。 私は、万歩計をリセットし直して、ゆっくりと内部駅をスタート地点として歩き始めた。時間にして、9時43分・・電車乗り継いでくるだけでこの時間・・だんだん遠くなってくると大変だなぁ〜とつくづく思うのであった。 まずは、国道を横断し、裏道をテクテク歩く。相変わらず寒いが、日差しがあるためまだ前回よりは良かった。羽織っているものも、ワンランク上の厚めのものにしたからかもしれない。 再び国道1号に合流し、内部川を渡る。この川に架かっている内部橋からこれから歩く先を見てみたら、先ゆく二人の姿は影も形も見えなかった。はぇぇぇぇぇ・・・。しかし、別に彼らに合わせる必要はまったくない。私は、この旅を楽しむために来ているのだ。そんなゆったりした気持ちのまま、道は国道を外れ、裏道にさしかかり、いつしか登り坂になっていた。 この登り坂の途中に石碑があった。そう、ここは『杖衝坂』と言って、日本武尊が剣の杖にすがりながらこの坂を越えたという伝説よりこの名が付いたそうだ。また、松尾芭蕉が「歩行ならば杖つき坂を落馬かな」という句を残しているが、今はそれほどきつい坂ではなく、しかもあっという間に頂上部に着いてしまった。登り切ったところに『血塚社』という神社があった。ここは、武尊が足の血を封じた場所と言われている。名前がなんとなくおどろおどろしい感じだ。社を後に、そのままさらに先を目指す。 この辺りは、車もほとんど通らず、静かな街並みを形成しており、歩いていて気持ちが良い。子供も安心して道路で遊んでいる。 しかし、その道も長くは続かず再び国道に合流。しばらく国道沿いを歩くことになる。地図を見てみると、道路の反対側に一里塚碑があるとのことだが・・横断歩道どころか歩道橋もまったくない。しかも前後をみても、当分なさそうだ。意を決めて車の往来が少なくなった時を見計らって思い切って向こう側に渡ることに成功!こわかったぁ・・ そして、きょろきょろしながら歩いていたその時、「あった!」『一里塚跡』を発見。碑だけであったが、危険をおかしてまで見つけられたので喜びは大きかった。そして、そのまましばらく国道沿いを歩き続ける。途中、横断歩道で反対側に渡り、長かった四日市市から鈴鹿市にさしかかる頃、ようやく国道を逸れ裏道へと突入した。 この辺りは小谷と呼ばれ、昔ながらの集落が形成されていた。そのままのんびりと歩き続ける。しばらく歩き、国道の下を通っている地下道をくぐり国道の反対側に渡る。そのまま西に向かって国道に合流する。しかし、すぐに右に逸れる道へと入った。この辺りからそろそろ44番目の宿場である『石薬師宿』である。 ここも車のあまり通らない静かな宿場であり、ところどころに昔ながらの家が見られ歩いていて気持ちがとっても良い。国道や鉄道等の開発の手が入らなかったところほどこういう街並みが残されているというのは、国の発展と歴史遺産とが相反するものだということの典型的な証明になると思う。 宿内をプラプラと歩いていると、前方に『小沢本陣跡石標』を発見。この石標の前に建っている家の表札を見てみると、現在もどうやら小沢さんが住んでいるらしいことが判明した。建物は、明治初期に建て替えられたものらしいが、それでも昔ながらの格子状の壁が雰囲気を良く残している。 さらに先に進むと、歌人で国文学者であるという『佐佐木信綱の生家』と資料館があった。しかし、私はこの人物のことを全く知らなかったので、特にこれといった感情は湧いてこなかったのだが、この生家は佐佐木氏が住んでいた当時のものがそのまま残っているらしく、きちんと保存している宿の人々の努力が素晴らしいと思った。 そんなこんなであっと言う間に宿場は終わりに近づこうとしていた。それほど大きな宿場ではないようだ。ちょっと歩いてから、宿場の名前の由来となった『石薬師寺』に到着。厳格な雰囲気を残しつつも、なんとなく寂寥感が感じられたのは私だけだろうか・・。 石薬師寺を見学した後、ちょっと旧東海道を逸れ、『御曹司社』と『蒲桜』を見に行った。これらは、源頼朝の弟である源範頼(のりより)に関連したものであり、範頼は武道・学問にすぐれていたので願望成就の神様と言われているようだ。 再び旧東海道に戻り歩き始める。まだ歩き始めて5qほどしか歩いていないはずなのに、もっと歩いてきたような気分になっている。ちょっと無理をしすぎているのだろうか・・。しかし、足は歩みを止めることなくただひたすら西を目指している。足の方が正直モノかもしれない。 歩いていると、前方に『石薬師一里塚石標』があった。ここの一里塚は、江戸時代の川柳で「くたびれるやつが見つける一里塚」と読まれていたらしいが、一体これはどういうことなのだろう・・・そんなことを考えつつ一里塚跡を後にした。JRの高架下をくぐり、畑の中ののどかな道を歩く。ちょっと寒いけどこういうところを歩くのは気持ちが良い。しかし、それも長くは続かず、もう何度目になるかわからないくらいの国道1号に再び合流。しばらく国道沿いを歩くことになる。 この辺りはかなりの交通量だ。歩道があるにもかかわらず、いや歩道があるが為に車は遠慮なくスピードを出して飛ばしている。車がすぐ横を通る度に風が巻き起こりほこりが舞う。早くこの国道を抜けたい・・・その思いだけでいつも以上のスピードを出して歩き続け、T字路にぶつかり、そのまま右折・・ようやく国道から逸れることができた時はホッとした。 国道を逸れた私は、すぐに左折。この入り口部分に石標が建っており、ここから先が『庄野宿』だという。『庄野宿』は、45番目の宿場であり、他の宿場よりもやや遅れて設けられたようだ。 少し細めの道路を歩き始める。土曜の午前中であるためか、はたまたもともとこういうものなのかわからないが、ここも車のあまり通らない比較的昔ながらの建物を残した街並みが形成されていた。 途中、左側に私の持っている地図に載っていない『庄野資料館』を発見した。せっかくなので見学していくことにする。中に入り記帳を済ませたあと、パンフレットをもらって中を見学した。ここは、代々小林家が住んでいた住宅であり、それを鈴鹿市が買い取って(正確には土地を購入し、上モノはそれに付いてきたという)こうして資料館として一般開放しているとのことを、ここの資料館のおばちゃんに聞いた。なんでも管理・運営は地元の人がボランティアでしているとのことで、良い取り組みを行っていると思った。色々と親切に教えてくれたおばちゃんにお礼を言って資料館を後にした。 その後、のんびりと『本陣跡』等を見ながら歩いていたが、この宿場も短くあっと言う間に過ぎ去ってしまった。しかし、この辺りは昔ながらの街並みがほどよく残っている集落が多く、私のような歩いている人にとっては喜ばしいところである。 歩き続けていると、再び国道にぶつかる。そこにあったコンビニで飲食料を調達したあと、国道の反対側に渡り、再び裏道へ。途中、『女人堤防の碑』を見る。これは、川が氾濫して被害が多かったため、藩に堤防の修築をお願いしたが許されなかったため、女性達が打ち首を覚悟して堤防を補強し、彼女たちが処刑場に送られながらも間一髪赦免の早馬で救われたということの碑である。今も昔も女性は強し・・・これに尽きる。 せっかくなので、ここで道を逸れてその堤防を見に行ってみることにした。ちょっと歩くと堤防に到着(写真上)。おお・・・当時のものとはおそらく違うモノになっているだろうが、その彼女たちの苦労が伝わってくる気がした。いつの時代もお上(かみ)の考えていることは、地元の考えていることと食い違ってくるものである。 堤防を後にした私は、再び旧東海道へ。途中、『中富田の一里塚跡』を見て、鈴鹿川の近くにある『川俣神社』で休憩をした。しかし、今日もわりと風が強いためかじっとベンチに座っているだけで寒くなってくる。仕方がないので、トイレに行った後、早々にここを後にして再び歩き始めた。 歩き初めてすぐに鈴鹿川に架かっている和泉橋を渡る。そのまま道なりに歩く。昔ながらの街並みが残されているところが続くが、大きな見所がないためサクサクと通過する。再びJRの踏切を渡り、さらに歩き続ける。途中、左手にJR井田川駅を見る。どうやらここは無人駅のようだ。そのまま道なりに先を目指し、国道1号を横切りそのまま裏道へ。 途中『和田の道標』を横目にそのまま道なりに。さらに石垣が印象的な『石上寺』を見て、テクテク歩くと、前方に一里塚を発見。この一里塚は、『和田の一里塚』であり、まだ新しめであり最近新たに整備したものらしかった。一里塚の周りが公園として整備されていたので、そんなに疲れていなかったがこの先の道を確認する意味も含めて軽く休んでいくことにした。 地図を見てみると、いつの間にか亀山市に入っていた。あとここから1時間もしないうちに亀山市中心街に入るだろう。今日の終わりが見えてきたとたん、気力が湧いてきた。よし、あとちょっと歩くぞ・・そう気合いを入れ直した私は、再び歩き始めることにした。 この先は特に見所がないところが続くも、徐々に街並みが市街地に入りつつあるのがわかる。道路の脇の家並みも商店街らしきものも目に入ってくる。すると、前方にお城を発見!(写真上)なんだあれは・・・と思って近づいてみたらどうやら衣服屋さんらしかった・・なんとも紛らわしい・・・(笑) しかし、この辺りは比較的昔からの家が残されているようだ。道が狭いのに飛ばしてくる車には閉口するが、この街並みに免じて許してやろう・・。 道は左へとカーブし、昔の城下町の入り口である江戸口門跡に着いた。現在は、標柱があるだけだが、ここからまだお城があったところまで距離はある。昔のお城の大きさを物語っている。 ここで左折し、さらに街の中心部に近づいていく。歩道部に屋根が付いたアーケード街に完全に突入していた(写真上)。しかし、車の走る道路部には屋根がないため全体的に明るさが感じられる。そのアーケードを逸れ裏道へ入る。一気に道は狭くなり、静かな街並みへ・・と思いきや、何故かビュンビュン飛ばした車が行き交う・・・。こっちの人は車中心のため狭い道もオチャノコサイサイなのだろうが、歩行者が居ることを気づいているのだろうか・・・。 そうしているうちに、十字路にぶつかり、右側に写真で見ていたお城の跡として唯一残る亀山城多聞櫓が見えた。左側に行くとJR亀山駅で今日の終着地であるが、明日の行程を楽にしておく意味で、ちょっとお城周辺を探索しておくことにした。時間もまだ早い。 まずは、侍屋敷の遺構として残っている『加藤家長屋門』を見学。その後、先ほどの十字路に戻り『多聞櫓』の見学に。天守閣とは違い、派手さはないのだが、落ち着いた佇まいが逆に歴史を物語っている気がした。さらにグルグルと周辺を探索。隣接している『亀山神社』でお参りし、どうしようと考え、ちょっと遠いが『亀山歴史博物館』に見学しに行くことにした。 1q以上歩いただろうか・・ようやく博物館に到着。さっそくお金を払って中を見学するも、なんと立派な施設にも関わらず誰も見学していない・・・利便性の問題か、それとも中身に問題があるのか・・。ちなみに、亀山の歴史を順序よく学べるようになっており、圧巻は亀山城下町の再現模型であった。これはお金をかけているだろうなあ〜と思った。そうして博物館を堪能した私は、受付のお姉さんにお礼を言って施設を後にした。 駅に向かう帰りの途中、明日歩くことになるであろう旧東海道にぶつかった。しかし、ここは明日歩くところだ・・と、ロクロク街道を見ずに駅を目指した。途中、もう一度『加藤家長屋門』を見学し、一路亀山駅へ(写真右)。ところが、この駅もあまり電車の本数がないことが判明・・。JR使えない・・。結局1時間近く待った後、ようやく電車が来て、予約したホテルがある津へ向けて電車は動き始めたのだった。(つづく) |
→第22日目 亀山−関 |
歩数計 | 30,694歩 |
カロリー | 1,276.9kcal |
距 離 | 18.42km |
時 間 | 9:43〜16:17 |
支 出 | 交通費|6,410円(新幹線は片道分) 飲食費|1,743円 その他|200円(施設見学料) |
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