東海道を歩く(東海道五十三次) / 放浪日記

 #第22日目|亀山−関 平成13年(2001)12月23日(日)

放浪日記第二十二日目MAP|亀山−関

平成13年(2001)12月23日(日) 東海道第22日目:亀山−関 天気:晴(寒い)

放浪第22日目のスタートだ〜しかし、今日も寒いぞー! 朝の9時前、私は前日に旅を終えた亀山駅舎にいた。
 前日の宿泊は、三重県の県庁所在地でもある津市であった。まだ出来て間もないホテルであったことから、とても快適な時間を過ごすことができた。しかし、電車で20分もない津−亀山間のはずなのに、ホテルを8時前に出ているのに、何故か亀山駅到着は9時前・・電車の時刻表にはいつも悩まされてしまうのであった。
 万歩計を新たにセットし直してさっそく出発。意気揚々に駅を出る。まずは腹ごしらえのために、駅前にあったパン屋でパンを購入。なんか無性に美味しそうだったので思わず足が向いてしまった。
 そして、さっそく歩きながら食べる(笑)。うん・・ちっと冷めているけど旨い!すっかり歩きながら食べるクセがついてしまった・・周りの人はどう思ってるだろうなぁ・・そんなことを思いつつ足慣らしも兼ねてのんびりとテクテク歩く。
 寒いながらも今日も良い天気だ。逆に冬の方が空気が澄んでいて空の青が余計に青く感じるのだ。だから、なんだかんだ言って夏場よりも冬の方が好きかも・・と思いつつさらに歩き続ける。
大岡寺畷〜人も車も通らず気持ちの良いところでしたっ(^^) 右に左に折れ曲がった、城下町特有の曲尺手を歩く。この辺りも昔ながらの街並みがほどよく残っており、昔の情緒をしのばせる。徐々に亀山の城下町を離れ、道は西へと続く(写真上)。
 テクテク歩いていると、右手前方に大きな椋の木が見えてきた。あれは一里塚だ・・そう思い、気持ち早歩き気味に向かうと、やはり思った通り『野村一里塚』であった。昔の人もこうやって一里塚を頼りに歩いていたという・・一瞬であったが、先人達と同じような気持ちになれて嬉しかった。
 この一里塚を過ぎた後、特に見所がないところが続く。しかし、途中お茶畑などがあり、退屈しない街道だ。実は、JR東海が今年東海道制400周年で企画している10コースの中にも含まれているところであり、よくできたものだとあらためて思った。
 途中、『布気神社』というところがあった。本堂はずっと奥の方にあるらしく道路部からは見えなかったのだが、この本堂に続くと思われる参道の両脇にずっと石灯籠が続いており、とても厳格な雰囲気を感じた。
 この旅をしてきて思ったのは、それぞれの寺社は地元の人々の心の支えになっていて、それぞれが歴史をつくってきている・・ということ。今までこういうことに触れる機会がなかったので、これはとても大きな発見であり、驚きでもあった。
そしてついにやってきました・・ここが関宿の入り口までのカウントダウン地です。<小万のもたれ松付近 布気神社を後にして、さらに先を目指す。少し歩くと道は下り坂に。道をテクテク下り、そのまま国道とJRの上を通過して反対側に。
 この辺りからこれまでの昔ながらの街並みから一転して、ゆったりした広々とした空間が広がっていた。家はほとんどみかけなくなり、代わりに道の両脇にサクラの木が延々と続いていた(写真上)。ここは大岡寺畷(たいこうじながて)と呼ばれているところであり、松尾芭蕉もここで一句詠んでいる。
 昔は松並木であったそうだが、サクラもなかなか悪くないと思った。もし機会があれば花咲く頃に来てみたいなぁ・・・
 そして、穏やかな天気ということも手伝って、とっても気持ちが良い。左側には鈴鹿川も流れている。さらに遙か遠い先を見てみると、きれいな稜線を描いた山並みが見え、いっそう気持ちが引き締まる気がした(写真館)。
 のんびりテクテク歩き続け、大岡寺畷も終わり、再びJRの踏切を越え、国道を横断。そのまま数十メートル国道沿いに歩き、すぐに道は右の裏道へ。いよいよ念願の『関宿』が近づいてきたようだ(写真上)。逸る心を抑えつつ、まずは宿の入り口にある『小万のもたれ松』を見る。
 この小万とは、小万のお父さん・牧藤左衛門の仇討ちの旅に出た藤左衛門の妻(つまりは小万のお母さん)が仇討ちの途中で亡くなり、その意志を引き継いで見事父の仇討ちを果たしたという美談の女性のことであり、この関・亀山ではあちこちに関連ものが見られる。
そして、関宿の街並み〜電線類が地中化されており、気持ちの良い昔ながらの街道がそこにはあります のんびりと宿場の中に足を踏み入れる。トロトロと歩いていると、前方に大きな鳥居が見えてきた。もしや・・と思って近づいて見てみると、予想通りのものであった。それは、『東の追分』というところであり、別名一の鳥居とも言う。ここは、旧東海道と伊勢別街道の分岐点で、関西方面からの伊勢参りはここから始まっていたのだ。
 そして、現在ではそれと同時に、東から来た人が感動する最初の場所でもある。それは、この鳥居から西に向かって約1.8qもの長い距離に渡って昔ながらの街並みが形成されているのだ。‘それ’は、昭和59年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されたほどのものであり、以前より写真を見ていて、とっても行きたいと思っていたところだったのだ。もちろん、それは全ての旧東海道ウォーカーに共通して言えるのではないだろうか。
 そして、私は鳥居から視線をその街並みに移してみた。
 「おおおおお〜〜〜」
 そこには、まさに江戸時代の街並みを思わせるような世界が拡がっていた(写真右・写真下、写真館123)。その要素をたくさん備えている街なのだ。電線・電柱地中化、細い街道に寄り添うようにひしめきあう両脇の家並み、統一された屋根、その細さ及び一方通行化したために車があまり走らない等々・・。
同じく関宿の街並み〜昔ながらの街道風景を味わいたい人はこちらに来ることをお勧めします! まだ朝の時間も早いためか街はこれから活動を始めようとしているところであった。逆にそれが生活感を一層感じさせた。この街道はのんびりと歩きたい。その思いは足も同じだったようで、頭で思わなくても自然と歩みを遅くしていた。
 のんびりのんびり歩く。とりあえず、スポットは全部みて廻ろう・・そう思った私は、持参の地図を持ち出してまず見るべきところはどこかチェックしてみた。すると、まず「御馳走場」があることを知る。さっそく入念にチェックをしつつ歩いているが・・・見つからない・・まさか過ぎてしまったか・・他の景色に夢中で見逃すことはこれまで多々あったことである。やってもうたぁ・・と思いつつも、しょうがないなとあっさりあきらめてそのまま先を目指した。
 それから街並みを十二分に堪能しつつ歩いていた。と、その時、私の目に飛び込んできたのは・・「あれ?」・・そう、先ほど見逃したと思っていた『御馳走場』だったのである。一体これは・・どうやら、歩くのが通常よりかなり遅かったため、距離感がその感覚を狂わせてしまっていたようだ。思わぬ巡り合わせに喜びつつ、まずは写真を撮る。
 御馳走場とは、宿役人や宿の亭主が衣服を改めて宿場の両端にあるここまで行列を出迎え、帰りには見送るという習わしがあった場所だという。
いつまでもこの街道の中にいたい・・・そう思えてしまうのがこの関宿の街並み 続いて、ここで一旦旧東海道を逸れ、『関神社』を見に行く。この宿場で唯一の神社である。他はすべてお寺という一風変わった宿場である。この関神社には、たくさんの人が居てなにやらお正月の準備らしきことをしていたので、邪魔しちゃ悪いとあまり近寄らずに早々にその場を退散。
 続いて、再び旧東海道を逸れ、『川北本陣の山門』が残っている延命寺、家康が食べた柿の種が今も老木として残っているという『瑞光寺』を見る。
 再び旧東海道に戻ってきた私の視界に入ってきたのは、『関まちなみ資料館』。さっそく見学をするため中に入る。ここの受付のおばちゃんは親切で、建物の中の構造などを色々と教えてくれた。また写真撮影もオッケーだという。太っ腹〜♪お礼を言ってさっそく靴を脱いで建物に上がった。
 この宿場に関連したものが多数収められており、またこれまでの宿の地域ぐるみの取り組みもわかるようなものが展示されており、地元住民の意気込みが一層感じられた。そして、一つ嬉しかったのは、箱階段があったこと。箱階段とは、昔の家庭によくあったと思われる、階段なんだけどタンスも兼ねているというすぐれもの(写真下)。そして、その階段を使って2階へ。狭い2階にも足を踏み入れた。狭い・・天井も低い・・しかし、ここから街道を眺めることができた。昔の人もこうやって街道を行き交う人々を見ていたのだろうか・・。施設内を充分堪能した私は、受付でお礼を言って資料館を後にした。
 のんびり街道歩きを続ける。徐々に人影が多くなってきた。それは、地元の人然り、街道ウォーカー然り・・・。
今ではほとんど見かけなくなった箱階段。関まちなみ資料館にて 立て続けに、『川北本陣跡』、『伊藤本陣跡』(共に石碑)を見る。すると、この辺りが宿の中心部であったのだろうか。
 続いて、もう一つの資料館・『関宿旅籠玉屋歴史資料館』を発見した。先ほど入った関まちなみ資料館と共通チケットを購入したので、さっそく入ることにした。受付のおばちゃんにチケットを見せると、またいきなり説明を始めた。それが親切から来ているのがわかるので、悪い気はしないのだが、いきなりでちょっとひいてしまう・・(笑)
 この玉屋は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と歌われたかなり良質な旅籠であったらしく、今では資料館となっているが、建物内部は当時の雰囲気を今でも残している感じだ。
さっそくおばちゃんにお礼を言って靴を脱いで建物にあがる。
 入ったところにテレビで何かを紹介しているところがあったが、先客が居たのでここは飛ばしてまずは2階に上がることに。この2階に上がるための階段が、江戸時代のそのままだとおばちゃんが教えてくれたものだ。うーん・・すごい・・。しかし、かなり急だぞ・・今だったら建築基準法違反だな(笑)と思いつつ慎重に階段を上がって2階へ。
 2階は関まちなみ資料館とは違って、大勢の客を泊めていたと思われる畳敷きの部屋が続いていた。う関宿の街並み〜ここの街並みはどこを切っても良いっ♪ん、いいなぁ・・誰も見学していないのが良かった。結局誰も来ないまま今度は別の階段を使って再び下へ。今度は離れを見る。この離れはちょっと身分の高い人が泊まっていたのかなぁ・・そんなことを思いながら室内をグルグル・・。
 続いて、靴を脱いだところに戻り、靴を履いて、井戸端などの横を通って裏庭にある土蔵へ。ここで広重の原画を展示しているという。さっそく中に入って見学。
 再び土蔵を出た私は、受付でお礼を含めて、この江戸時代からある階段を写真撮っていいか尋ねたところ、快諾してくれた。しかも、どこから来たのとかいう会話が始まり、神奈川から来たことを知らせると、色々資料をあげるからちょっと待っててね、と奥へ資料を取りに行って、たくさん持ってきてくれた。ここの宿の人たちは観光地だからと言ってお高くとまることはなく、みな親切な人ばかりで気持ちが良かった。
 たくさんの資料をもらった私は、おばちゃんによくよくお礼を言って、玉屋を後にした。玉屋を出て西の方へ視線を向けてみると、前方遠くに鈴鹿峠らしき雄姿が見えた(実際は違うようです(^^;;)(写真右)。大岡寺畷で見た時よりだいぶ目前に迫ってきている。
 テクテクと歩き続け、徐々に大きな屋根瓦が視界に入ってくるのを感じていた。そして、視界が開け目の前にそれが現れた時は、ハッとした。それは、『地蔵院』という国指定重要文化財になっている我が国最古の地蔵菩薩の聖地でも知られているところであった。こういう雰囲気を醸し出しているところは、その雰本日の終着点・JR関駅。しかし、この旅をもってしばらく放浪から遠ざかってしまうことになったのです・・・(>_<)囲気からして違うものだ。これまで出会ってきた寺社もそういうところが多々あった。そして、この地蔵院も例外ではなかった。私は、なんとなくその威容に圧倒されてしまった感があり、しばらくボーっと地蔵院を見ていたのだった。
 フッと我に返り、この先どうしようと思った。今日はもともとこの関宿で終わりにするつもりだった。関宿は、この先ももう少し続くが、どっちにしろまたここは再び来る場所だ・・・少し考え、今日はここで終えることにした。そして、再びちょっと街並みを堪能しつつ関駅に向かうことにした。
 それから、15分ほど経っただろうか・・ようやく関駅が見えてきた(写真左)。しかし、これホントに駅なのだろうか・・駅名が建物のどこにも記載されていない・・。しかし、中に入って駅だと言うことが判明・・なんとも紛らわしい。時刻表を見てみる。うげぇ・・やっぱり電車は当分来ない(笑)
 そんなこんなで、12月は仕事が忙しいにも関わらず、慌ただしく旅を続けてきたがどこも充実していたし、JR東海が企画している割安切符も活用できて良かった。次回の最後の難関とも言える鈴鹿峠はいつになるかわからないが万全の体勢で望むぞ〜と心に誓いつつ、電車が来るまで待ち続けているのであった。(つづく)
→第23日目 関−水口


歩数計 12,844歩
カロリー 534.4kcal
距 離 7.71km
時 間 8:58〜11:57
支 出 交通費|5,720円(新幹線は片道分)
飲食費|950円
その他|7,319円(宿泊代、施設見学料)


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