東海道を歩く(東海道五十三次) / 歴史探訪 | |
東海道:亀山宿〜関宿 |
亀山宿 東海道46番目の宿場です。 石川氏6万石の城下町としても栄えた宿場ですが、宿場町としての規模はそれほど大きくなかったそうです。その後、近代以降はローソクの生産で発展してきました。 現在も、城跡を中心にあちこちに古い街並みが残されています。 今来たところへ戻る△ |
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遍照寺 このお寺は、室町末期の開基と伝えられていますが、来歴は不詳です。明治初年、本堂が焼失したため、亀山城二之丸御殿玄関部分を移築して本堂としました。 今来たところへ戻る△ |
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池の側の松並木 この松(左側の大きな松)は、亀山城濠の風致として植えられたもので、樹齢は約300年と言われています。 現在は、この大きな松を中心に数本が残るのみです。 今来たところへ戻る△ |
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加藤家長屋門 亀山藩主石川家家老職加藤家(600石)屋敷の表門にあたる長屋門です。江戸時代中期以降の建築と考えられています。 現在は、長屋門(写真)、土蔵、母屋の一部などが残っているにすぎませんが、近世武家建築の数少ない遺構です。平成2年に修復されています。 今来たところへ戻る△ |
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西之丸歴史広場 加藤家長屋門の隣に整備されている歴史広場公園。敷地内には公民館のような施設もあったという気がします。ちなみに、東屋もあり、私はそこでのんびりと休憩しました。 今来たところへ戻る△ |
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石井兄弟敵討碑 大阪城代青山家家臣石井宇右衛門宗春が赤堀源五右衛門に討たれ、宗春の子4人が親の仇を探し求めました。長男三之丞は返り討ち、次男彦七は海上で遭難死し、残る三男源蔵と四男半蔵が29年目の元禄14年(1701)5月9日早朝、父と兄の仇をうちました。 その敵討ちをうったところが、この碑のあるところです。 今来たところへ戻る△ |
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亀山城址 亀山城は、岡本氏が天正18年(1590)に現存する石塁上に三層の天守閣を築きました。その優美さは、群れ飛ぶ蝶に例えられ、「粉蝶城」と呼ばれました。 現在では、多聞櫓を残すのみとなりました。 (→写真館) 今来たところへ戻る△ |
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亀山神社 亀山城址の多聞櫓近くにある亀山神社です。 写真がちょっと怪しくなっていますが、撮影に失敗したためです。決して妖気が漂っているわけじゃないですよ(笑) 今来たところへ戻る△ |
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亀山歴史博物館 亀山の貴重な歴史を伝える博物館です。 ただし、立派な施設なのですが、見学している人は、私一人でした。もったいないなぁ・・・ちょっと駅から、そして宿場の中心から離れているのが街道ウォーカーも寄りづらい一つの要因になってる気がします。 今来たところへ戻る△ |
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問屋場跡 西町の問屋場跡です。 今来たところへ戻る△ |
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京口門跡 梅巌寺の境内にあるそうです。・・・が、結局どれだかわからずじまい・・・。 ちなみに、京口門とは、ここから亀山宿だという入り口部分にあたるところでした。 今来たところへ戻る△ |
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慈恩寺 このお寺は、聖武天皇の神亀5年(728)行基が勅願により創建したと伝えられる古刹です。かつては七堂伽藍を備えた大寺でしたが、幾たびの兵火に見舞われて変遷を重ねています。 今来たところへ戻る△ |
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野村一里塚 江戸から数えて105番目の一里塚跡です。 慶長9年(1604)徳川家康の命により、亀山城主関一政が築造されたとされています。 三重県下の一里塚で現存するのはここだけとなっています。街道の右側のみが現存されています。 今来たところへ戻る△ |
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布気神社 参道に献灯が奥までずっと並んでいる神社。 朝早くに訪れたので、参道をきれいにしていました。掃除をするのは気持ち良いですね! 今来たところへ戻る△ |
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2002.9.2update
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