東海道を歩く(東海道五十三次) / 放浪日記

 #第19日目|呼続−阿倉川 平成13年(2001)12月15日(土)

放浪日記第十九日目MAP|呼続−阿倉川

平成13年(2001)12月15日(土) 東海道第19日目:呼続−阿倉川 天気:快晴時々曇(桑名以西雪/晴)

今日もがんばるぞー!呼続駅を出て旧東海道を歩き始めたの図 急遽行くことに決めた今回の放浪。前日、遅くまで起きていたにもかかわらず、適度な緊張感があったためか、目覚ましが鳴る前に目覚めることに成功し、予定通りの時間に家を出た。そのまま電車に乗り東京駅に到着。私を乗せた新幹線は、一路名古屋に向けて出発した。
 いつもなら新幹線に乗った途端に寝てしまう私であったが、何故かこの日は眠くならなかった。窓から外の流れゆく景色を見ていると、時間にして6時過ぎなのにまだ外は暗い。街もまだ眠りから目覚めていないようだ。夏ならば、このくらいの時間ならすでに活動を始めている時間・・すっかり季節は冬なのだなぁ〜とあらためて感じていた。
 そうこうしているうちに、日が登り始めた。一日の始まりを告げるように、次々と家々の屋根を照らす陽の光が視界に次々と飛び込んできた。いつ見ても日の出は良いものである。
 そうして新幹線は無事名古屋に到着。今まで「こだま号」だったが、今日から「ひかり号」に乗ることができたため、とても早い到着に感じられた。
 そのままJR在来線・名鉄を乗り継ぎ前回旅を終えた呼続駅に到着。さっそく万歩計のカウンターをリセットして歩き始めた。時間にして8時43分であった。
昔の東海道は、大きな国道によって遮断されていたのであった・・・宮宿付近にて 呼続駅を出発してすぐに旧東海道にぶつかり、そのまま旧東海道を再び歩き始めた(写真上)。しばらく寺社などの見所がないところを歩く。周辺を見ていると、徐々に名古屋の市街地に近づいてきていることがわかる。企業のビルが多くなってきたのがその証拠だ。
 そうこうしているうちに、上空に高速道路が走っている大きな道路にぶつかった。この辺りは、昔、松並木などがあっただろうに、今では近代的なコンクリートで固められた道路がどっかりと居座っており、すっかり様変わりしてしまっていた。
 道路を横断した後、さらに歩き続ける。途中、西行法師が腰をかけたという『西行腰掛け石』などを見た後、道はT字路にぶつかりここを左へ。ここを右に曲がると別のルート・佐屋街道の始まりである。佐屋街道は、海路ではなく、桑名に行くための陸路+川路を利用する東海道の裏街道でもあるのだ。
 そのまま直進を続けると、なんと前方で大きな道路によって道が分断されてしまっていた!(写真右)地図を見てみると、そのままちょっと左に行くと歩道橋があるのでそれを渡るように指示されていたが、なんとこの歩道も何故か階段がなくなっているではないか!理由は定かではないが、この数ヶ月の間になくなってしまったらしい。しょうがないので、右側の遠くに見えた歩道橋でなんとか向こう側に渡ることに成功。宮宿〜東海道は、ここから海上7里の旅になります。そのままぐるっと廻って旧東海道に戻り、一路宮の七里の渡しを目指した。
 徐々に前方に松らしき木が見えてきた。どうやら目的地はもうすぐだ。そうして、資料等で見ていた「時の鐘」を発見。ここが宮の七里の渡し跡である(写真左、写真館)。昔は、ここから現在の三重県の桑名にある『七里の渡し』まで、旧東海道は海を渡る船旅となっていたのだ。しかし、現在では「跡」というくらいで、ここから桑名までの船は出ていない。今の手段としては、先ほどの佐屋街道をさらに途中まで歩いて佐屋宿から川路を船で下るルートか、それとも電車を使って一気に桑名まで行くかの二通りしかない。
 しかし、私はすでに電車で桑名へ行こうと決めていたので、ここでは考えるまでもなかった。そのため、時間もまだ早いことからこの宮の七里の渡し跡周辺を探索した。ちょうど、この辺りが公園になっていたのだ。
 しかし、かれこれあんまり長居してもしょうがないので、写真もたくさん撮ったのでここを後にした。
渡し跡を離れた私は、桑名に行く前に、行こうと思ってたところに立ち寄ることにした。それは、『熱田神宮』である。実は、未だ来たことがなかったのだ。
 ほどなくして神宮に着き、生い茂った緑のトンネルをすすむ。朝早いにもかかわらず、多くの参拝客が訪れていた。
宮宿付近の熱田神宮〜厳格な雰囲気に圧倒されてしまいました しかし、長い。この神宮は神宮の杜とでも言って良いと思うくらい、とても広大な敷地を有している。
かなり歩いた一番奥地に本宮があった(写真右、写真館)。この神宮を見た時にハッとした。そして、それと同時にとても厳かな雰囲気が一気に伝わってきた。この旅を続けていると、多くの寺社に立ち寄ることになる。そんな寺社の中にも色々と「格」というものがあるように感じられ、この熱田神宮はかなりのハイレベルな「気」のようなものが感じられたのだ。
 本当は、25円を入れたかったのだが、ある理由から50円を入れた。この時に、さらにハッとすることがあった。神社なので'パンパン'と2回手をたたくのだが、参拝客は皆自信をもって叩いているように見えた。それに比べて、私は控えめにやっていることに気づいた。あまり神社にお参りすることがなかったと言ってしまえばそれまでだが、なんとなく地元住民と熱田神宮との深い繋がりのようなものを感じてしまった。もちろん、それは他の場所においても同様のことであり、それぞれ地域に密着した寺社というものは確かに存在しているのだということを、あらためて思ったのであった。そして、次に神社にお参りする時は、もっと自信を持って手を叩こう・・と心に誓った。
 その後、日本3大土塀の一つであるという『信長塀』などを見た後、私は熱田神宮を後にして、名鉄の神宮前駅を目指した。
 名鉄神宮前駅から新名古屋駅に出て、そこから近鉄に乗り換えて、一路桑名へ。
 そうしてかれこれ神宮駅を出てから45分ほど経過したのち、電車は三重県に突入し、桑名駅に到着した。
桑名城跡の九華公園〜昔のお城は公園となってました・・が、雪が降って寒かった〜(>_<) さっそく再び万歩計をリセットして三重県編スタート・・・と歩き出した途端に、パラパラと上から何かが降ってきた。ん〜?雨かなぁ〜・・と、最初はまだ小雨だから大丈夫だな・・と特に気にせず歩いていると・・ん?何かおかしいぞ・・これってもしや・・・そう!なんと雨ではなく雪が降ってきたのであった。
 確かに、この日は寒い日だった。しかし、よもや旅先で今冬初の雪を体験することになろうとは・・・。しかも、この日は風もかなり強いことから、いっそう寒さが増してきた感じだ。
 途中耐えきれなくなり、コンビニに立ち寄り肉まんと缶コーヒーを購入。「ほぉ〜♪」少し身体が温まったので、まずは『桑名城跡』を見に行くことにした。
 ・・・しかし寒い。たった今温まったにも関わらず、心底寒さが身に応える感じだ。歩いていてもまったく温かくならないのだ。しかし、立ち止まっているともっと寒くなってくる。だからひたすら歩くことにした。しかし、何故か歩くのをやめようとは全く考えなかった。何故だろう・・・これは、歩くことに取り憑かれたものでないとわからないかもしれない。
 そうして、ようやく『桑名城跡』に到着(写真上)。
 城跡は、お堀を残しつつ多くの木々が植えられているなど、かなりよさげな公園と化していたが、あいにくの天気のためほとんど人はいなかった。この公園には、たくさんの鳥が生息していたが、あの白い鳥はなんだったのだろう・・・カモメっぽく見えたけど、まさか・・ねぇ・・(笑)
桑名の渡し〜ここから海上を経て宮宿へ その後、天守閣跡がわからずグルグルと公園内を廻ってしまったが、なんとか無事発見できたので、長居してしまった城跡を後にして再び旧東海道の出発点である桑名の『七里の渡し跡』に行くことにした。
この公園から七里の渡し跡に行く途中、ずっと揖斐川沿いを歩いたのだが、途中水門等を工事している箇所にぶつかった。と、なんとそこが『七里の渡し跡』であったのだ!(写真右)なんと、水門工事と同時にこの渡しの整備もしているらしく、平成17年3月には完成予定とのことだが、これはかなりショックだった。しかも寒さがそれに拍車をかけているようで、ここに長居は無用と「渡し跡」を後にして先に進むことにした。
 まずは、渡しの近くにある『本陣跡』、『脇本陣跡』を見た。両方とも今では料亭として営業しているようだ。外観だけ見たが、やはりこれぞ本陣か・・と思わせるような佇まいを醸し出していた。両家を写真に収めた後、再び旧東海道を歩き始めた。
 この七里の渡しの跡から続いている旧東海道は、現在の道路だと裏道に当たっており、車は出入りできるのだが通過する車がないため落ち着いた街道を形成している。特に、昔ながらの建物も点在しており、寒いながらも景色を見る余裕があったのがよかった。
 歩いていると、右側に春日神社の『青銅鳥居』があった。青銅の鳥居とは珍しく、俗諺としても「勢州桑名に過ぎたるものは銅の鳥居に二朱女郎」と謳われている。
ちょっと文字がつぶれて見えなくなってますが、自筆での案内紙ですっ!−桑名宿付近 さらに先を目指す。すると、左側に昔のものが現存している『桑名城城壁(石垣)』と東海道五十三次を模した『歴史を語る公園』と名の付くミニ公園があった。これが、日本橋(ホントの小さな橋がある)から途中に富士山(のミニチュア)があったりして、最後の京都の三条大橋まで数百メートル続いており、面白かったので公園内を歩いた。日本橋からあっという間に三条大橋までたどり着いてしまったが、実際は、そんな生半可なものじゃないんだなぁ〜と、ここまで歩いてきたから言えること(笑)
 似非東海道公園を歩いた後、旧東海道は右へと曲がっている。そのまましばらく直進。すると前方に道標を発見。ここを左へ。この辺り、旧東海道の方向指示版が曲がり角ごとに設置されている。どうやら三重県の東海道制400年を記念しての事業の一環のようだ。旧東海道を実際に歩く者にとっては、とても嬉しい配慮だ。
 道を左に曲がった後、そのまましばらく直進のする。しばらく歩いてから、地図を取り出して見てみると、この辺りで再び道を曲がるはずだが・・ときょろきょろしてると、後ろから「東海道はまだまっすぐよ」との声が。振り返ってみると、自転車に乗ったおばあさんが。そのまま後に先になりつつそのおばあさんは曲がるべきところまで来てここよ〜と教えてくれた。そして、「この辺りは『七曲がり』というのよ〜」と。色々とどうもありがと〜!
朝日町の資料館〜ここの管理人には色々とお世話になりましたっ 実際に指示版があるので大丈夫なはずだったが、こういう地元の人との交流はとても嬉しい。温かみが感じられるのだ。
 さらに道を何回か曲がり、ようやく桑名宿の曲尺手をクリアし、ひたすら西進する。身体を縮めながら歩きつつも、途中のいくつかの寺社を見つつさらに歩き続ける。
 歩いていると、徐々に昔の町並みが目に入ってくる。この辺りは安永・縄生というところで、戦災の被害を免れたため、こうしてきれいな町並みが残っているのだ。こういうところは、今も尚、ここの地元の人たちの生活の場として、そして観光のスポットとして町は生きているのである。街道歩きにとっては、とても嬉しい歴史遺産である。
 ここまで結構距離があったのが、こうした町並みに救われてなんとか歩いてくることができた。しかし、寒いものは寒い。途中、立ち寄るお店もないため、自販機で缶コーヒーを買い、風の入ってこない神社の隅で休んでいくことにした。ここまで無休憩だったので、足を休める意味も含めて。
 しかし、あまり長居をせずに再び歩き始める。時間がかなり押してしまっている。今日は予定では四日市まで行く予定であり、ここからまだ10q近くある・・。少し歩みを早めることにした。
夕暮れに映える街並み〜羽津付近 途中、朝日町というところで木造の資料館を見つけたので入ってみた(写真上)。すると、管理人らしき人が現れて色々と説明してくれた。この建物は、昔は役場であり、その後公民館となり今は『資料館』となっているとのことで、中には、農耕機具や家事全般道具などが展示されており、歴史の一端に触れることができた。ぐるっと見た後帰り際にお礼を言って出ていこうとしたところ、おじさんから良かったらとこの朝日町周辺の歴史資源を記したパンフレットをもらった。これはとても嬉しかった。どうもありがとう!この旅に出ていると、こうした人とのふれあいがありがたく感じられる。
 資料館を出たあと、再び西へ。さっそくおじさんにもらったパンフを持ちつつ寺社を見学。うん、かなり役に立つパンフだ。またホームページの歴史探訪を作成する時に役立つだろう。
 さらに歩き続ける。途中、いくつかの川を越え、鉄道を越えつつ歩き続ける。この辺りの寺社を見てて思うのは、かなり大規模なものが多いということと、説明版等を読んでいると、滝川一益という武将の名前が挙がっていること。ちょうど、一向一揆の場所として有名な長島などが近くにあることから、信長の命を受けて滝川一益がこの辺りを攻め込んだらしい。滝川一益は、あまり評判がよくないようだ。武将としては、忍者の末裔であることからかなりの能力があったようだが、あまり統率力がなかったのだろうか・・・。
本日の終点・阿倉川駅〜この駅近くのブックオフに立ち寄っていたら日が暮れました(爆) 話が逸れたが、さらに西を目指す。冬の日中は短いため、陽はかなり傾き始めている。と、羽津というところで国道1号に合流。そのまま国道沿いを歩き始めたその時、交差点にさしかかった私の目に飛び込んできたのは、最近全国展開をしている某古本屋。ちょっとだけ・・・と寄ったのが運の尽きで、店を出た頃には外は真っ暗になりつつあった。
 ここから四日市までは3q弱・・・歩けないこともなかったが、次の日はあまり距離を歩かない予定だったので、今日はこれまで・・と近くにあった近鉄・阿倉川駅で放浪を終えることにした。ほどなく駅に到着(写真右)。
 なんとなく中途半端に終わってしまった感があったが、それでも充実感を感じつつ、改札をくぐったのであった。(つづく)
→第20日目 阿倉川−内部


歩数計 32,447歩
カロリー 1,349.8kcal
距 離 19.48km
時 間 8:43〜16:49
支 出 交通費|7,020円(新幹線は片道分)
飲食費|1,781円
その他|0円


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