東海道を歩く(東海道五十三次) / 歴史探訪 | |
東海道:桑名宿〜四日市宿 |
桑名宿 東海道42番目の宿場です。 桑名宿は、宮宿へ渡る船着き場でもある「七里の渡し」を控え、大きく賑わいました。また、松平氏の城下町でもあり、宿場近くには城址公園があります。 現在においても、比較的古い昔ながらの町並みが残っており、本陣、脇本陣とも旧態を残しています。 今来たところへ戻る△ |
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桑名城跡(九華公園) 今は九華公園となっている桑名城跡です。 桑名城は、その昔本多忠勝という武将のお城でした。本多忠勝と言う人物は「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八(忠勝)」とまで言われた名将であり、それがためか、お城近くには巨大な忠勝像がありました。 今来たところへ戻る△ |
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七里の渡し跡 慶長6年(1601)東海道が制定されて、桑名宿と宮宿の間は、海上7里の渡船と定められました。所要は3〜4時間と思われますが、潮の干満によりコースは違っており、時間も一定できませんでした。 のち佐屋宿(現愛知県佐屋町)へ川路3里の渡船も行われました。鳥居は、伊勢神宮一の鳥居で、天明以来建てられています。 私が訪れた時は、水門が工事中で殺伐とした風景でした。この工事は平成17年3月に完成予定となっています。 今来たところへ戻る△ |
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脇本陣「駿河屋」跡 脇本陣は、桑名宿に4軒ありましたが、そのうち最も格式の高いのが駿河屋でした。建物は変わっていますが、現在は料理旅館「山月」の一部となっています。 今来たところへ戻る△ |
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大塚本陣跡 大塚本陣は、桑名宿で最大かつ最高の格式をもった本陣で、裏庭から直接乗船できました。建物は変わっていますが、明治時代から料理旅館「船津屋」として営業しています。 今来たところへ戻る△ |
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舟会所跡 舟会所は、宮及び佐屋へ渡る旅人のために渡船の手配をする事務所でした。旅人は、この舟会所に乗船の申し込みをして料金を支払い、乗船しました。 現在建っている建物は、普通の民家だと思われます。 今来たところへ戻る△ |
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青銅鳥居(春日神社) 「勢州桑名に過ぎたるものは青銅鳥居に二朱女郎」とうたわれた大鳥居です。寛文7年(1667)に建立され、春日神社の前の東海道沿いにあります。 今来たところへ戻る△ |
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しるべ石 しるべ石は、青銅鳥居(上記写真)の傍らにあり、明治18年(1885)に建てられたもので、当時の人を捜すための伝言板でした。 今来たところへ戻る△ |
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桑名城城壁 川口町揖斐川に面する川口樋内から南大手橋に至る延長約500mが現存し、桑名市の文化財に指定されています。 今来たところへ戻る△ |
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吉津屋見附跡 別名七曲がりとも言います。このあたりの道は、クネクネと曲がっているからですね。 自転車に乗ったおばあさんに教えてもらいました。 今来たところへ戻る△ |
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竹内家(馬つなぎの輪) 桑名宿近くの矢田地区は、戦災を免れたこともあり、比較的昔ながらの街並みが見られるところです。その中で、竹内家は、馬をつないでおくための馬つなぎの輪が残されています。休憩する時に、ここに馬を繋げておいたのですね。 今来たところへ戻る△ |
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矢田立場 立場は、東海道を往来する旅人たちの休息場として賑わっていたところです。戦災を免れた西矢田町は、火の見櫓が復元されています。 今来たところへ戻る△ |
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伊勢両宮常夜燈と里程標 文政元年(1818)桑名や岐阜の材木商人達によって寄進されたといわれ、往事の東海道を偲ばせるものとなっています。 里程標は、明治26年(1893)の建立で、三重県庁(津市)まで11里30丁(約47q)を示しています。 今来たところへ戻る△ |
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縄生(なお)村一里塚跡 江戸から数えて97番目の一里塚です。 今来たところへ戻る△ |
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朝日町資料館 朝日町資料館は、大正5年(1916)に朝日村役場として現在地に建てられました。その後、朝日町公民館を経て、昭和53年に朝日町資料館として開館し、現在に至っています。 館内には、民族資料を中心にその当時の農機具や家具などが展示されています。 ここの館長はとても親切な方で、色々と教えてくれたり、朝日町の地図などもくれました! 今来たところへ戻る△ |
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橘守部誕生地の碑 地元小向出身の国学者橘守部の生誕地であることを記念したもので、佐佐木信綱の揮毫により昭和27年に建てられました。 同碑は、朝日町役場の入り口にあります。 今来たところへ戻る△ |
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浄泉坊 浄土真宗本願寺派。徳川家にゆかりのある桑名藩主の奥方の菩提寺になっていたことがあると言われ、参勤交代の大名はこの門前では駕籠から降りて黙礼していったという言い伝えが残っています。朝日町資料館の管理人が教えてくれました。 今来たところへ戻る△ |
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真光寺 浄土真宗本願寺派。明暦3年(1657)桑名藩主松平定良が有馬温泉の帰途病死し、町屋川が洪水となり、川止めとなったため、遺体を3日間安置したお寺です。 今来たところへ戻る△ |
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富田一里塚跡 江戸から数えて98番目の一里塚です。 今来たところへ戻る△ |
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長明寺 明応年間(1492〜1501)浄空により開基された浄土真宗本願寺派の寺院。境内は、素堀りの環濠に囲まれていて、文治年間(1185〜90)蒔田氏の居城した城址とされています。 今来たところへ戻る△ |
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羽津城跡 築城は、藤原盛宗で、ムカデ退治で有名な藤原秀郷(そのうち出てきます。そのときはここからリンクで飛ぶようにします)の子孫でもあります。 その後、羽津城は6代続きましたが、1572年織田信長に滅ぼされました。 現在、城跡と称しているところは、昔の本丸の跡で、土塁が残っています。 (→お城探訪) 今来たところへ戻る△ |
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三ツ谷一里塚跡 江戸から数えて99番目の一里塚です。 昭和20年代に海蔵川が拡幅された際に、川の中に取り込まれてしまいましたが、東海道制400周年を記念して新しく石碑を作りました。2001年3月末のことです。 ここまで来れば、四日市宿はすぐそこです。 今来たところへ戻る△ |
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2002.8.10update
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