東海道を歩く(東海道五十三次) / 歴史探訪


東海道:鳴海宿〜宮宿
鳴海宿〜名古屋市という都心部の割に、落ち着いた街並みがあります〜写真は、鳴海の商店街 鳴海宿
東海道40番目の宿場です。
この鳴海宿と池鯉鮒宿との間にある間の宿・有松の名産物「有松絞り」を販売して栄えました。有松絞りは別名「鳴海絞り」とも呼ばれています。
現在は、名古屋市の東部に当たりますが、付近に残る多くの社寺を中心に、比較的当時の面影を残しています。

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鳴海城跡の碑〜紅葉の赤が見事です! 鳴海城跡の碑
根古屋城とも言い、応永年中(1394〜1428)安原宗範の築城です。
桶狭間の戦いでは、今川方の岡部元信が最後までこの城に立てこもりました。その後織田氏の城となりましたが、天正18年(1590)廃城になりました。今も堀跡が残り、宿一帯を眺める山上に城跡の碑などがあります。

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鳴海宿本陣跡 鳴海宿本陣跡
鳴海宿の本陣跡です。今は、左写真のような看板があるのみです。

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千鳥塚 千鳥塚
貞享4年(1687)冬、寺島安信宅での歌仙「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」の巻が終わったのを記念して建てられたものです。碑文は、芭蕉の自筆で、芭蕉存命中唯一の碑です。
この碑のある場所は、千句塚公園となっており、休日には付近の人々の憩いの場となっています。

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笠寺の一里塚〜一里塚のあるところは、ポケットパークのようになっています 笠寺一里塚
日本橋より88番目の一里塚です。
名古屋市内には各街道合わせ9ヶ所の一里塚があったと言われていますが、現存するのはこの笠寺のみです。
街道の南側の塚は、大正時代の頃に取り去られ、現在では北側のみが残っています。高さ約3メートル、直径10メートルの円丘上に2.6メートルの高さの榎の大木があります。

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東光院〜笠覆寺十二坊の一つ 東光院
宮本武蔵が滞在した寺で、武蔵が左右両腕で書き分けた「自筆天満天神書幅」や「自画像条幅」「自作木刀」を所蔵しています。
また、天満天神菅原道真の肖像画、別名「出世神酒天神」もあり、学問成就や出世のご利益があると名高いお寺でもあります。

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笠寺観音〜縁結びのお寺で有名ですっ♪ 笠寺観音(笠覆寺)
昔、鳴海の豪族に両親を殺され、その下女として虐げられる哀れな娘がいました。ある日、娘は野で雨に濡れる観音を見つけ、自分の笠を脱いでさしかけました。この信仰深さが、やがて藤原兼平の妻、のちの玉照姫となる運命になるわけです。
この寺は、そんな姫が延長8年(930)寺を再建しました。

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泉増院〜縁結び祈願はこちらへ〜笠覆寺十二坊の一つ 泉増院
小松寺(源笠覆寺)の観音を雨露から守り、やがて藤原兼平の夫人となった玉照姫の像を祀ってあります。
夢でお告げを受けた笠覆寺の上人が仏師に姫の像を刻ませて奉安したところ、霊験著しく、代々徳川家の姫君や奥女中の信仰を集めたと言われています。
縁結び祈願はこちらへ。

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西方院〜安産祈願はこちらへ〜笠覆寺十二坊の一つ 西方院
およそ800年前、木曽義仲の母が日頃から持仏として信仰し、出産の折りに安産したという「うすさま明王」を安置しています
不浄を転じて清浄にする功徳を持ったため、不浄除の守護仏とされています。安産、婦人病、下の病などにご利益があるそうです。

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富部神社 富部神社
もとは、戸部天王とも言われ、国主松平忠吉が病気平癒を祈願・快復した報恩のため、慶長11年(1606)本殿は清洲から現在の一間社流造、檜皮葺屋根の社殿を建立したものです。

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年魚市潟勝景跡碑 年魚市(あゆち)潟勝景跡碑
年魚市(あゆち)は愛知の語源と言われ、年魚市潟は星崎・呼続・熱田の、海辺が湾入した遠浅の地形を示したものです。
名古屋市の名勝に指定されています。

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熊野三社 熊野三社
呼続(よびつぎ)近くにあった熊野三社です。神社の詳細は不明ですが、親子(父娘)でバトミントンをしていたのが印象的でした。

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西行が腰をかけたと言われる西行腰掛石 西行腰掛石
浜神明社境内にあり、左端に「西行法師腰かけ石」の文字が刻まれ、石の両端に五指を開いて置いた痕を浅く刻しています。

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2002.6.23update


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