美濃路を歩く / 歴史探訪


美濃路:墨俣宿〜大垣宿
墨俣宿〜歴史が感じられる落ち着いた街です 墨俣宿
宮宿から数えて7番目の宿場です。
墨俣宿は、場所は変わっていますが、古くから宿場として発達していた町のようです。
江戸時代には、勅使大名朝鮮琉球使節等の休憩所として、本陣などが利用されました。
現在の宿場は、鉄道筋から外れているものの、それが逆に効を奏してか、とても歴史の感じられる落ち着いた町となっています。


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墨俣本陣跡 墨俣本陣跡
墨俣宿の本陣跡です。初代を沢井九市郎正賢なる人物が本陣を務め、2代目以降は代々沢井彦四郎を名乗り、明治に至るまで13代続きました。
道を挟んだ北側には、高札場がありました。

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墨俣城 墨俣城
秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた頃、対斉藤家の前線の基地として、一夜にして築いたと伝えられるお城です。また、この後の戦争で勝利を収め、秀吉出世のきっかけになったことから、出世城もしくは一夜城とも呼ばれているお城です。
もちろん現在は復元されたものですが、往時に思いを馳せるにはうってつけの歴史的建造物です。写真に写っている石像は、言わずと知れた秀吉像です。
(→写真館

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廣専寺 廣専寺
浄土真宗のお寺で、美濃路から外れた寺町通りに面しています。

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本正寺 本正寺
かつての脇本陣の門が移築され、現在山門として残っています。

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脇本陣跡 脇本陣跡
墨俣宿の脇本陣跡です。この脇本陣の門は、明治末に本正寺というお寺に移築され、現在山門として残っています。

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東結一里塚跡 東結一里塚跡
堤の南側の下に明治43年(1910)に建てられた馬頭観音(左側)と一里塚跡の石碑があります。往時は、堤上の南北に一里塚がありましたが、現在は写真に写る碑が残るのみです。

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米の宮之址碑 米の宮之址碑
下記の観音堂の手前にあった石碑ですが、この石碑が建てられた由来等をメモってくることを忘れてしまいました。どなたかご存じの方がおりましたら教えて下さい。

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照手姫にゆかりのある観音堂 観音堂
この観音堂は、照手姫にゆかりがあるお堂です。
照手姫は、相模の国で小栗判官と夫婦の契りをしましたが、父が反対し判官を殺そうとしたところを照手姫が助け、判官は三河の国へ逃れました。照手姫は、その行方を知らず、彼方こなたをたずねた後、結神社に小栗判官との再会を祈願したところ、満願の夢まくらに霊験あって、判官の居所がわかり、再び会うことができました。

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結神社 結神社
創建は嘉応年間(1169年)と伝えられています。結村の「むすぶ」はご三神の「むすび」に由来し、縁結びの他、諸願成就に霊験ありと、遠国からも多くの人が参詣したそうです。その昔、織田信長も戦勝祈願をした歴史のある神社です。

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結神社内のさされ石 さされ石
結神社の境内にあります。
日本の国歌の中にも詠まれている石です。学名は石灰質角礫岩で、長い年月の間に溶解した石灰石が多くの小石を集結して次第に大きく生長した目出度い石だそうです。
当時岐阜県にお住まいの方が見つけたそうです。

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常夜灯 常夜灯
揖斐川の土手に建てられた常夜灯です。村内の安全、揖斐川の治水安全、旅人の安全を祈願し建立されました。創建は嘉永7年(1854)で、毎年4月3日に例祭が行われているようです。

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小野の長橋 小野の長橋
美濃路と鎌倉街道が重なっている道沿いに石碑がありました。

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三塚一里塚跡 三塚一里塚跡
三塚一里塚跡です。現在は、写真のような石碑が残るのみです。

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2003.11.17update


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