美濃路を歩く / 歴史探訪


美濃路:大垣宿〜垂井宿
大垣宿〜さわやかな見どころ満載の宿場です 大垣宿
宮宿から数えて8番目の宿場です。そして、美濃路最後の宿場でもあります。
ここ大垣宿は、美濃路沿いの宿場に加え、大垣城の城下町としても栄えてきました。また、近くを大小の川が流れ、街を潤していることから、現在は「水の都」と呼ばれているそうです。芭蕉の奥の細道の終着点としても有名ですね。


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大垣城東総門跡・名古屋口御門跡
大垣城の東側の入口部に当たるところです。
写真の上にマウスを載せると、名古屋口・・と書かれた反対側を見ることができます。

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大垣城 大垣城
大垣城は、天文4年(1535)に創建されたと伝えられています。関ヶ原の合戦(1600)では、西軍の本拠となり、激しい攻防戦が繰り広げられました。関ヶ原の戦い後、戸田氏が入城し、幕末まで至っています。
昭和20年(1945)戦災により焼失してしまいましたが、昭和34年(1959)再建されました。
(→写真館

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道標 道標
南下してきた美濃路は、ここの道標を右折です。どのような道標だったか失念しました。。。

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大垣宿本陣跡 大垣宿本陣跡
大垣宿の本陣跡です。当初は沼波家が務めましたが、その後岡田家、飯沼家と代わっています。明治11年(1878)には、明治天皇もお泊まりになられています。
現在は、竹島会館となっています。

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船町道標 船町道標
大垣城と美濃路の西の総門である京口門のあった近くに「左江戸右京みち」と書かれた道標が建てられています。(写真中央案内板の右側の道標です)

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奥の細道むすびの地記念館 奥の細道むすびの地記念館
大垣市総合福祉会館内にあります。松尾芭蕉の奥の細道のむすびの地(終着点)ということで、芭蕉にまつわる情報が満載です。特に、交流の深かった大垣在の木因との交わりについての資料が多いです。
入口部は、館長さんのご厚意により、許可を得て撮影させて頂きました。

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住吉燈台 住吉燈台
水門川の水運が盛んな頃、船町港の繁栄と航行の安全を祈って、この住吉燈台が建てられました。また、少し下流に行ったところには、常夜灯が建てられました。

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投句記載台と投句箱 投句記載台と投句箱
芭蕉が訪れた主要なところでは、このように投句ができるように記載台や投句箱が置いてあります。春夏秋冬、季節の感じられる時期に一句いかがですか?

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奥の細道むすびの地碑 奥の細道むすびの地碑
奥の細道の旅に出た芭蕉は、ここ大垣が終着点でした。ここ大垣には、俳友谷木因が居たためのようで、芭蕉は何度もここを訪れています。

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芭蕉・木因遺跡 芭蕉・木因遺跡
上に記載した通り、芭蕉がここ大垣に何度も訪れたのは、俳友木因が居たためでした。木因は芭蕉と同じ北村季吟の門下生で、壮年から交わりが深かったようです。
木因の死後、芭蕉・木因の因縁を偲び、木因碑を建てて、「芭蕉・木因遺跡」としました。

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2003.12.01update


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