#歴史探訪 日野宿〜八王子宿


甲州街道:日野宿〜八王子宿
日野宿〜かつての面影は見られませんが、新撰組関連の情報はゲットできます 日野宿
日本橋から数えて10番目の宿場です。
かつての宿場の面影は何も残っていませんが、佐藤彦五郎氏の屋敷(本陣or脇本陣として利用された)や立派な寺社などが点在しています。
また、かつての新撰組の主力メンバーが稽古に励んでいた道場もあったことから、新撰組に関わる史跡が多く残されています。

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土方歳三資料館 土方歳三資料館(+土方歳三生家跡)
歳三が育った生家跡です。現在は、改築されて当時のものではありません。
この家に隣接する形で資料館が開設されており、毎月第三日曜日の13:00〜1600に公開しています。この資料館では、歳三が若い頃売り歩いていたという石田散薬の製造道具や、歳三の詠んだ句集、歳三使用の鉢金や和泉守兼定の刀をはじめとした資料が豊富に揃っています。
私は、土曜日に訪れたのですが、色々な事情があって、運良く見学することができました。詳しくは、放浪日記2日目をどうぞ。
なお、ここは、甲州街道から大きくはずれたところにあります。

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石田寺 石田寺
歳三のお墓があるお寺で「せきでんじ」と読みます。彼のお墓は、花が絶えることがないそうで、私が訪れた日も、供えてありました。
歳三は、明治2年5月11日、新政府軍による函館総攻撃の最中、戦闘指揮中に銃弾を受けて戦死しました。
歳三のお墓は、放浪日記2日目に写真を掲載しています。
なお、同寺は、甲州街道から大きくはずれたところにあります。

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万願寺一里塚跡 万願寺一里塚跡
日本橋から数えて9番目の一里塚です。甲州街道が万願寺の渡しを通った江戸初期の道筋にあり、その後の甲州街道から、かなりはずれたところにあります。
道の両側にあった塚のうち、ひとつが昭和43年に取り壊されてしまい、現在は片側にこんもりとした山が残るのみです。

※復元されたという情報有り。

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問屋場跡・高札場跡 問屋場跡・高札場跡
問屋場跡・高札場跡です。
かつての日野宿の中心部にありましたが、現在は石碑があるのみです。
日野館の対面にあります。

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日野館 日野館(現・日野本陣)
この建物は、佐藤彦五郎氏(彦五郎の妻のぶは土方歳三の姉)が10年に及ぶ歳月を費やして文久3年(1863)に完成させました。この建物は、本陣(もしくは脇本陣)としても利用されていたようです。
また、彦五郎氏は、天然理心流の門に入り、極意皆伝の免許を取り、この屋敷内(現在は駐車場)に道場を設けました。
現在、この建物は、お蕎麦やさんとして誰でも家屋内部に入ることができます。また、かつての旧甲州街道、現在の国道20号沿いにあります。
※その後、おそば屋さんではなく、「日野本陣」として一般公開されるようになりました。

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天然理心流道場跡(佐藤道場跡) 天然理心流道場跡(佐藤道場跡)
かつての佐藤彦五郎屋敷(現在の日野館)の前には、天然理心流の道場がありました。この道場では、近藤勇・土方歳三・沖田総司・井上源三郎等をはじめとしたのちの新撰組の中心人物達が稽古に励んでいました。
しかし、大正15年(1926)の大火でこの道場はほとんど焼けてしまいました。

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八坂神社 八坂神社
甲州街道沿いにあります。寛政12年(1800)に再建された社殿は、日野市の指定文化財になっています。
また、天然理心流近藤周助(勇の養父)の門人らが、剣術の上達を願って、安政5年(1858)8月に奉納したといわれる額があります。しかし、現在は非公開なので実物を見ることができません。しかし、日野市のホームページにて見ることができます。

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宝泉寺 宝泉寺
このお寺には、かつての新撰組六番隊長井上源三郎のお墓と顕彰碑があります。
井上源三郎は、土方歳三、沖田総司らと同じ天然理心流の門下生で、土方らと同じく京にのぼり、新撰組六番隊長として働きました。しかし、慶応4年(1868)の鳥羽・伏見の戦いにおいて戦死しました。


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坂下地蔵堂 坂下地蔵堂
かつての旧甲州街道沿いにあります。
銅造りの地蔵菩薩坐像が安置されています。
日野をはじめ近在の232人の合力を得て、正徳3年(1713)に造られました。このお堂の外にもお地蔵さんが並んでいました。
この先、旧甲州街道は、鉄道により遮断されていました。

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2002.12.19update


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