東海道を歩く(東海道五十三次) / 歴史探訪


東海道:池鯉鮒宿〜鳴海宿
池鯉鮒宿〜旧東海道筋は落ち着いた街並みが見られました 池鯉鮒宿
東海道39番目の宿場です。
中世には、鎌倉街道の要衝として、江戸時代には東海道の宿場町として発展しました。
鳴海宿は、城下町ではありませんが、宿場中央で街道が急角度に屈曲しているのが特徴的です。
宿場のあった辺りは、現在商店街となっており、いくつかの石碑を見ることができます。

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池鯉鮒宿問屋場の跡碑 池鯉鮒宿問屋場の跡碑
池鯉鮒宿の問屋は、知立市中町に昭和46年まで残っていましたが、近年取り壊されました。

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池鯉鮒宿本陣跡碑 池鯉鮒宿本陣跡碑
池鯉鮒の本陣跡碑です。

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池鯉鮒宿脇本陣玄関 池鯉鮒宿脇本陣玄関
脇本陣は、かつての本陣の向かい側に建っていました。しかし、現在はその建物はすでになく、玄関のみが、明治3年に小松寺に移されて現存しているのみです。

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総持寺跡の大イチョウ 総持寺跡の大イチョウ
元和2年(1616)、ここに玉泉坊を創建、貞享3年(1688)総持寺と改称、明治5年(1872)廃寺となり、境内は民間の手に渡りました。このイチョウはその名残です。樹齢200余年を経た今も樹勢は未だ衰えていません。
総持寺は、その後大正15年(1926)に西町新川に再建され、現在に至っています。

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於万の方誕生地碑 於万の方誕生地碑
後年、徳川家康の側室となったお万の方は、知立神社神主永見貞英を父とし、刈谷城主水野忠政の娘を母として、天文16年(1547)知立城にて誕生しました。お万が16歳の時、浜松の家康のもとに引き取られました。その後家康との間に、貞愛と秀康(次男・のちの結城秀康)の双生児をもうけています。

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しょうぶ園・知立公園 しょうぶ園・知立公園
昭和30年に明治神宮より贈られた60種あまりの花しょうぶが植えられています。
知立神社の横にあります。

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知立神社多宝塔 知立神社多宝塔
知立神社の境内にある多宝塔です。
室町時代に再建されたものです。三間二層の塔で、正面に桟唐戸を配し、左右に連子窓。屋根は、柿葺で、高さは約10メートルあります。
国の重要文化財に指定されています。

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知立神社 知立神社
知立神社は、東海道三大社のひとつにも数えられています。
日本武尊が東征のおり、当地に皇祖神を祀ったのがその始まりと言われています。境内には、国の重要文化財に指定されている多宝塔があります。

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烏丸光廣歌碑 烏丸光廣歌碑
「うち渡す尾張の国の境橋 これやにわかの継目なるらん」
これを詠んだ烏丸光廣は、江戸初期の歌人です。
この歌碑は、尾張国と三河国の境にかかっている橋のたもとにあります。
この境橋は、尾張側は木橋、三河側は土橋のいわゆる継橋であり、烏丸は膠(にかわ)と三河(みかわ)をかけて詠んでいます。

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阿野一里塚 阿野一里塚
日本橋より86番目の一里塚です。
阿野一里塚は、東海道の両側に現存しており、昭和11年に国指定史跡になっています。
(→写真館

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前後の松 前後の松
前後駅近くにある、かつての松並木の名残です。
昔は、この辺りも松並木だったそうですが、今はこの松が当時の面影を残す唯一のものとなってしまいました。

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戦人塚〜紅葉の時期と重なってとても神秘的な空間が拡がっていました 戦人塚
豊明市栄町南館の一帯は、織田信長が今川義元を討った、桶狭間の戦いの場と言われています。
この戦人塚は、今川方の戦死者2500余人を、曹源寺の龍喜和尚が埋葬し、供養した塚です。
小高い丘の上にあり、ちょうど紅葉時期に訪れたためか、周りの木々がとても綺麗に色づいていました。
(→写真館

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2002.6.22update


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