東海道を歩く(東海道五十三次) / 歴史探訪 | |
東海道:池鯉鮒宿〜鳴海宿 |
桶狭間古戦場伝説地 永禄3年(1560)5月19日、天下統一をめざし京都に向かう今川義元が2万5千の軍を率いて桶狭間に陣を張ったところを、織田信長の3千の軍が奇襲し、義元の首級をあげたが、有名な桶狭間の戦いです。 その主戦地が、この碑があるところと言われており、現在は公園となっています。また、公園内には数々の石碑があります。 (→写真館) 今来たところへ戻る△ |
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弔古碑 桶狭間古戦場公園内にある弔古碑です。ここで亡くなった多くの武将を弔った碑ですね。 今来たところへ戻る△ |
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今川義元の墓 同じく桶狭間古戦場公園内にある、今川義元のお墓です。 今川義元は、駿河、遠江、三河と幅広い領土を持っている実力武将でしたが、新興の織田信長の奇襲にやられてしまったのです。 原因は色々あると思いますが、やっぱり「驕り」だろうな・・と私は思ってるわけです。人間、謙虚が大事です。 今来たところへ戻る△ |
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七石表 今川義元が討ち取られたところ・・と言われているところです。ちょうど紅葉時期に訪れたため、一風変わった景観がそこにはありました。 今来たところへ戻る△ |
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高徳院 桶狭間古戦場近くにある高徳院です。ここには、今川義元の本陣跡碑などがあります。 入り口がとてもきれいで、立派な竹も両脇に植わっていました。(写真が入り口部分です) 今来たところへ戻る△ |
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今川義元本陣跡碑 高徳院内にある今川義元本陣跡の石碑です。 義元直系の芹沢二郎氏が、先祖の終焉の地に追善供養のため建てたものです。 ここでいう本陣は、戦争時における総大将がいるところを指します。 今来たところへ戻る△ |
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有松絞開祖竹田庄九郎碑 池鯉鮒宿と鳴海宿の間には、有松と呼ばれる間の宿がありました。 そして、そこの名産が「有松絞」と呼ばれるもので、竹田庄九郎という人物が豊後の絞染からヒントを得て考案しました。 そして、昭和8年、有松商工同業組合により同氏の石碑が建立されました。 今来たところへ戻る△ |
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服部家 間の宿・有松は、絞問屋をはじめとした古い家並みが今も残っています。中でも、旧藩時代の町屋建築の遺構である服部家は旧態をよくとどめています。 今来たところへ戻る△ |
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竹田家住宅 この住宅は、江戸期と思われる主屋を中心に、明治から大正にかけて整備されていったとみられています。 平成7年に名古屋市の有形文化財に指定されています。 今来たところへ戻る△ |
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岡家住宅 この住宅は、江戸時代末期の重厚な有松の絞問屋の建築形態です。 主屋は、旧状をよく残し、二階窓の優美な縦格子をもち、有松における代表的な美しい外観を備えた塗籠造の建物です。 昭和62年に名古屋市の有形文化財に指定されています。 今来たところへ戻る△ |
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小塚家住宅 この住宅は、重厚広壮な有松の絞問屋の形態をよくとどめています。小塚家は、屋号を山形屋として明治期まで絞問屋を営んでいました。 平成4年に市の有形文化財に指定されています。 今来たところへ戻る△ |
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祇園寺 もと円道寺といい、鳴海村にあったが、その後猿堂寺と改称し、さらに宝暦5年(1755)祇園寺と改めて現在地に移りました。 その頃、苔巌和尚がここに草庵を建てて疱瘡のまじないをして、効能があったと言われています。 今来たところへ戻る△ |
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2002.6.22update
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