東海道を歩く(東海道五十三次) / 歴史探訪 | |
東海道:興津宿〜江尻宿 |
興津宿 東海道17番目の宿場であり、名勝、清見潟に面し、薩た峠越えを控えて賑わった宿場です。本陣・脇本陣とも2軒ずつありました。 古くから交通の要衝として知られ、古代には関所・清見ヶ関が置かれていました。 現在は、国道1号線に沿って開発が進み、宿場の面影はほとんど残されていません。 今来たところへ戻る△ |
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宗像神社(むなかたじんじゃ) 海上航海の守護神である筑紫の宗像神を勧請したもので、平安中期の創建と想定されます。境内の池を弁天池、また境域を女体の森と称し、駿河湾が霧に覆われてもこの森だけは浮かんでいるように見えたので、清水港の水先案内人たちがここを目当てに船を漕いだと言われています。 今来たところへ戻る△ |
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身延山道道標・石塔寺跡 明治以降に廃寺となり寺院は今は無いが、門前にあった、身延街道を示す題目碑と道標、七面山常夜燈が現存しています。 今来たところへ戻る△ |
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興津一里塚跡 今は無き興津の一里塚跡の石碑です。江戸から数えて41番目に当たります。 今来たところへ戻る△ |
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興津宿東本陣址 興津宿内にあった本陣のうちの東町にあり代々市川家が本陣職をつとめたところです。 今は、往時の形跡は見られず石碑のみとなっています。 今来たところへ戻る△ |
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興津宿西本陣址 興津宿にあった本陣のうちの西町にあり手塚家が本陣職をつとめたところです。 今では、石碑のみとなっています。 今来たところへ戻る△ |
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清見関跡 平安・鎌倉期には、清見寺辺りに関所が設けられていました。山塊が海辺に突出し、その下を東海道が通るという要衝になっていたからだと考えられています。 現在では、清見寺門前に標柱が立つのみとなっています。 今来たところへ戻る△ |
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六道地蔵尊 清見寺の門前に立っていました。 人はこの世を終わって後、冥土の長旅をして六道の辻に出ると言われています。而して生前の行いに因って六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道)のうちいずれかを自ら選ぶと言われています。 地蔵尊は、常にこの辻に立って冥土の人の心の支えになっているのです。 今来たところへ戻る△ |
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臥龍梅 清見寺境内にあります。 家康が自ら手植えをしたと言われている梅の木です。 今来たところへ戻る△ |
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清見寺 白鳳年間(672〜86)に清見関が設けられた際、その守護として仏堂が建立されたのが始まりと言われ、弘長元年(1261)関聖が再興しました。以来、足利尊氏、今川義元らの帰依を受け、今の清見寺は江戸時代に再建されたものです。 (→写真館) 今来たところへ戻る△ |
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後生車 清見寺の境内にあります。 現世において犯した諸々の悪業をこの車を廻しながら懺悔して、後生の善処を願う車です。 ちなみに、悪業はしてないと思いますが、ゴロゴロ車を廻しておきました(笑) 今来たところへ戻る△ |
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五百羅漢 同じく清見寺の境内にあります。 天明年間に彫像されたと言われている五百羅漢です。この中に自分と同じ顔の像があると言いますが、さすがに多すぎてわかりませんでした。 今来たところへ戻る△ |
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坐漁荘跡(西園寺記念公園) 明治・大正・昭和に渡る政治家・西園寺公望の晩年の別荘跡です。政客が足繁く訪れました。 建物は現在明治村に移され、跡地には記念館が建ち、公民館として利用されています。 今来たところへ戻る△ |
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清見潟公園 井上馨の別荘跡でもある清見潟公園です。 真ん中に写っている銅像が井上馨です。 今来たところへ戻る△ |
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東光寺の山門 門戸が格子造りになっているのが特徴です。 江戸時代、勅使が江戸に行く途中、興津川の氾濫で足止めをくらって東光寺に泊まることになり、急遽この門を作ったと言われています。 今来たところへ戻る△ |
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細井の松原 慶長9年(1604)、二代将軍徳川秀忠が街道の両側に松を植えさせ、同17年完成したと伝えられています。 元禄16年(1703)駿府代官守屋助四郎の検地によると、松原の全長119間2尺(約360m)、松の本数1106本と言われています。 この松は、第二次大戦で松根油の原料として伐採され、現在その跡は見られません。 今来たところへ戻る△ |
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2002.1.2update
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