東海道を歩く(東海道五十三次) / 歴史探訪 | |
東海道:由比宿〜興津宿 |
由比宿 由比宿は、本陣1、脇本陣1、旅籠32と、規模は小さかったのですが、西に難所・薩た峠を控えていたため、賑わっていました。 由比正雪の生誕地としても知られており、現在も正雪の生家と伝えられている家が本陣前に残っています。宿場の街並みも割と残されており、情緒が感じられるまちです。 今来たところへ戻る△ |
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由比一里塚跡 江戸より38里目の一里塚です。ここを過ぎるとまもなく由比宿です。 今来たところへ戻る△ |
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由比本陣公園 元々本陣のあった場所に、正門、石垣、木塀、物見櫓、馬の水飲み場などを復元した公園です。 公園内には、本陣の離れ館を再現した「御幸亭」、土蔵跡には東海道広重美術館があります。この美術館には、歌川広重の作品を中心とした800余点の版画のほか、江戸期の由比の様子を知ることができる資料が展示されています。 (→写真館) 今来たところへ戻る△ |
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御幸亭 明治天皇が小休止された離れを復元し、枯山水式の美しい庭園を望むことのできる場所です。 今来たところへ戻る△ |
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正雪紺屋 慶安の変(1651)の風雲児、由比正雪の生家と言われています。 現在は紺屋(染物屋)を継いで、18代目の吉岡家となっています。 今来たところへ戻る△ |
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寺尾の町並み この寺尾地区と寺尾地区の西にある倉沢地区は、当時の難所であった薩た峠の東の入り口に当たるため、旅人の休憩のための間の宿が置かれました。 街道は、今でもその当時の雰囲気を残しています。 今来たところへ戻る△ |
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東海道あかり博物館 大正8年に建てられた民家の内部では、ロウソク行灯、油行灯、提灯、そして現代の電灯に至るまでの「日本の明かり」の変遷を紹介しています。 しかし、まだ開館時間前であったため、見学することは出来ませんでした。 (開館時間10時〜16時) 今来たところへ戻る△ |
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小池亭 武田信玄の家臣だった小池主水を先祖に13代続いた名主の館です。数年前に家系が絶え、現在は由比町によって管理され、休憩所として一般開放されています。 建物の特徴としては、格子やなまこ壁、くぐり戸付きの大戸などに古い時代の面影がよく残っています。 また、国の有形文化財に登録もされています。 今来たところへ戻る△ |
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鞍佐里神社 「日本武尊が東征の途中、賊の焼き討ちの野火にあい、自ら鞍下(あんか)に居して神明に念ず、其鞍、敵の火矢によって焼け破れ尽くした。依って鞍去(くらさり)の名あり」と伝えられています。 今来たところへ戻る△ |
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望嶽亭 慶応3年(1867)に山岡鉄舟が官軍の目を逃れ、かくまわれた所と言われています。 本来は、藤屋と称して茶屋を営み、磯料理、あわび、さざえのつぼ焼きを名物としていました。ここより富士山の眺望がよいので「望嶽亭」と称し、文人墨客が好んで休憩したそうです。 今来たところへ戻る△ |
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西倉沢一里塚跡 江戸から40番目に当たる一里塚です。現在は、碑だけが建てられています。 この一里塚から薩た峠に登る坂道が始まるのです。 今来たところへ戻る△ |
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薩た峠 倉沢の海から引き上げられた地蔵菩薩(薩た)を祀ったところから、薩た峠の名が付きました。 歌川(安藤)広重が描いた当時とほぼ同じ風景を見ることができる数少ない場所です。 この日は、残念ながら富士山の姿を見ることが出来ませんでしたが、いつか必ず富士山を見に行きたいです! (→特集!薩た峠をゆく) (→写真館) 今来たところへ戻る△ |
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海岸寺百体観世音 海岸寺の開山は、元禄9年。本堂の波除け如来を中心に左右50体ずつの百体観世音が祀られています。 大正4.5年の台風で、打ち寄せる大波に付近の村落は全滅したのですが、犠牲者が一人も出なかったのはこの観世音のご利益だと言い伝えられています。 今来たところへ戻る△ |
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2002.1.1update
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