東海道を歩く(東海道五十三次) / 歴史探訪


東海道:品川宿〜川崎宿
品川宿〜南品川の道を歩くの図 品川宿
品川は、江戸を出てから最初の宿場町で、江戸の玄関口としていつも賑わっていた宿場でした。「南の吉原」と呼ばれたほどの遊郭があり、江戸の庶民の遊興地でもありました。
当時の宿場の中心は今の北品川駅付近で、現在でも商店街となっています。
その商店街の人が中心となって、「まちづくり協議会」を設立し、イベントを開催したり、街並みを再現したりしているなど、商店街の活性化と共に宿場町を意識したまちづくりに対する積極的な取り組みが伺われます。

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聖蹟公園〜本陣が置かれた場所でもあるの図 聖蹟公園
江戸時代には、大名が宿泊する本陣が置かれた場所です。明治天皇が休憩した行在所としても使われたことから「聖蹟」の名がついたそうです。
写真に写っている松は、近江の土山宿から寄贈されたものだそうです。

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幕府御用宿 釜屋跡碑の図 幕府御用宿 釜屋跡
場所は、京浜急行線青物横丁駅近辺で、幕府の御用宿として使われたそうです。
写真ではわかりづらいですが、かの有名な新選組副長土方歳三も休息したことがあるそうです。写真の説明版の「誠」の文字は、土方歳三四代の子孫土方康氏が書いたそうです。

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泪橋〜泪なしでは通れない橋の図 泪橋
「泪橋」とは通称であり、正式には「浜川橋」といいます。
この橋は、鈴ヶ森刑場へ向かう罪人と肉親との別れの場であったことからこの名がついたそうです。

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鈴ヶ森刑場跡〜見せしめにしては残酷な東海道筋の図 鈴ヶ森刑場跡
泪橋で肉親と別れた罪人が向かった場所がこの刑場です。見せしめのために人通りの多い東海道沿いに置かれていたそうです。
泣く子も黙ると言われた同場所ですが、その時の光景が如何に凄かったかを物語っている気がします。
余談ですが、中国三国時代に「泣く子も黙る」と言われた張遼という武将が居ました。それほど強かったんですね。

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梅屋敷公園〜梅の開花には今少しの図 梅屋敷公園
京浜急行線梅屋敷駅近くの公園です。
ここには、かつて茶屋があり、旅人の多くがここで軽い休憩をとったそうです。また、梅の名所でもあり、広重の浮世絵にも描かれています。

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2001.3.27update


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