美濃路を歩く / 歴史探訪


美濃路:宮宿〜名古屋宿
ここが美濃路の出発点です。「宮宿」と書いてありますが、実際の宮宿は、もう少し南に下ったところにありました 宮宿
脇街道・美濃路の出発点は、この宿場です。宮宿は、東海道における宿場でもあり(江戸から数えて41番目)、とても賑わっていました。
また、近くにある熱田神宮の門前町でもありました。
さらに詳しいことについては、こちらへ。
(ちなみに、左の写真は宮宿ではなく、東海道と美濃路(+佐屋街道)との分岐地点です。)

今来たところへ戻る△








道標。美濃路が始まっている証でもあります 道標(三又の道標)
東海道と美濃路(+佐屋街道)との分岐点です(上の写真のところにあたります)
この写真に写る道標は、建立当時(1790年)から変わっていないそうです。

今来たところへ戻る△


熱田神宮〜朝から人で賑わっていました 熱田神宮
初詣にたくさんの人が訪れるところで有名ですが、ここの神様ならなんでも包みこんで叶えてくれるような、そんなことを感じさせてくれるところです。
東海道のところに詳しく書いてありますので、詳細はこちらへ。

今来たところへ戻る△


岡部又右衛門尉宅跡 岡部又右衛門尉宅跡
岡部家は、代々宮大工でした。又兵衛以俊は総大匠司として安土城を築城し、織田信長から日本総天守棟梁の称号が与えられます。
また、その子の宗光は豊臣秀吉の命により京都大仏殿を造営、徳川家康の命により名古屋城築城をしました。
ここは、おそらく代々岡部家が住んだ館があったのでしょう。今は、普通の倉庫らしき建物があるのみです。

今来たところへ戻る△


白鳥御陵の石碑 白鳥御陵石碑
この石碑を左に曲がると白鳥御陵があります。
白鳥御陵は日本武尊のお墓と言われております。日本武尊が熊祖征伐の後伊吹山の側で病に倒れ、魂が白い鳥となって熱田神宮の側に舞い降り、その場所が白鳥御陵になったという伝説が残っています。
ちなみに、その御陵は見に行ってません。

今来たところへ戻る△


源頼朝出生の地 源頼朝出生地の碑
平安時代末期頃、ここに熱田大宮司の館があったところと言われており、その別邸で久安3年(1147)源頼朝が誕生したと言われています。
その後、享禄2年(1529)に別邸跡に善光上人が誓願時を建立しました。

今来たところへ戻る△


断夫山古墳〜大きすぎて写真に写りきりません(笑) 断夫山古墳
東海地方最大の前方後円墳だそうです。全長151mで5世紀後半から6世紀前半の築造と推定されています。
確かに、あまりの大きさにどうやって写真に収めようかと思ったほどでした(笑)

今来たところへ戻る△


佐屋路の道標 佐屋路の道標
金山総合駅近くの交差点部に建っている道標で、ここで同じ道で続いてきた美濃路と佐屋街道が分かれます。この道標を見つつ真っ直ぐが美濃路、左折すると佐屋街道になります。
こうした貴重な歴史資源を知らない人達によって、この道標は放置自転車の中に埋もれていました。

今来たところへ戻る△


大木戸跡 大木戸跡
かつての大木戸跡です。もちろん、今は何も残っていません。おそらく当時は、この辺りが名古屋宿の入口部にあたったのだと思います。
美濃路は、左の写真の右側の道に入っていきます。

今来たところへ戻る△


古渡城址の石碑 古渡城址石碑
天文3年(1534)に織田信長の父・信秀が築城しました。信秀はそれまで今川氏豊から奪取した那古野城にいましたが、子・信長に那古野城を譲り、自らはこのお城に移りました。信長が元服をしたお城でもあります。
その後、信秀が末森城に移り、信長も清洲城に移ったため、廃城となってしまいました。現在は、真言大谷派名古屋別院境内に石碑があるのみです。

今来たところへ戻る△


真言大谷派名古屋別院 真言大谷派名古屋別院(東別院)
江戸時代の創建当時は、名古屋城と肩を並べるほどの建物だったそうです。現在の建物は、昭和20年(1945)の空襲で焼失したため、再建されたものです。それにしてもかなりの規模です。
また、ここは元々古渡城があったところであるため、とても敷地規模も大きいです。

今来たところへ戻る△


栄国寺 栄国寺
寛文5年(1665)尾張二代藩主光友が、刑場を土器野(かわらけの)(現在の西春日井郡新川町)に移し、その跡地に菩提を弔うため清涼庵を創建、貞亨2年(1685)に栄国寺と改められました。
美濃路筋からは、少し離れたところにあります。

今来たところへ戻る△


西本願寺名古屋別院 西本願寺名古屋別院
浄土真宗本願寺派のお寺です。
明応年間(1500年頃)に蓮如上人の十三子蓮淳が伊勢杉江というところに願証寺を創建したことに始まります。
その後、没落再興を経て、江戸時代初期頃名古屋城築城とともに現在地に移されました。
写真に写る本堂は、古代印度中天竺様式という一風変わった造りで、昭和47年(1972)に再建されています。

今来たところへ戻る△


大須観音は、多くの人で賑わっていました 大須観音
正式には、北野山真福寺宝生院と言い、現在は真言宗智山派に属し、京都智積院の末寺ですが、別格本山という寺格を持っているそうです。
この辺りの中心的なところのようで、朝っぱらからひっきりなしに人が訪れていました。そして、人だけではなく鳩もたくさんいました(笑)

今来たところへ戻る△


若宮八幡社 若宮八幡社
社伝に天武天皇(697〜707)の時代に那古屋庄今市場に創建し、延喜年間(901〜923)に再興したと書かれています。
慶長15年(1610)徳川家康が名古屋城築城にあたり、今の地に移して尾張名古屋の総鎮守としました。
美濃路からはちょっと外れたところに位置しています。

今来たところへ戻る△


政秀寺 政秀寺
臨済宗妙心寺派のこのお寺は、織田信長の守り役であった平手政秀の菩提を弔うため信長が建立したお寺です。
政秀は、信長の「うつけ」を誡めるべく、自らの死をもってそれを伝えたのです。
若宮八幡社と同様、美濃路筋からは少し離れたところに位置しています。

今来たところへ戻る△

名古屋宿−清須宿→

2003.03.11update


トップページ脇街道美濃路を歩く歴史探訪>宮宿〜名古屋宿