#歴史探訪 鶴瀬宿〜勝沼宿
甲州街道:鶴瀬宿〜勝沼宿 |
鶴瀬宿 日本橋から数えて35番目の宿場です。 隣宿の駒飼宿と問屋業務において合宿でした。旅籠も4軒しかなく、小さな宿場だったようです。 現在では、往時の面影はどこにも見られません。 今来たところへ戻る△ |
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鶴瀬関所跡 甲州12関の一、この関は「鶴瀬の口留番所」と言われ、主に物資の流通の警戒と、「入鉄砲に出女」を取り締まったところです。 現在は案内碑が残るのみです。 今来たところへ戻る△ |
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鶴瀬宿石碑 鶴瀬宿の中心部にあった石碑。この石碑、すごい色をしてました。 今来たところへ戻る△ |
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血洗沢 武田の家紋が書かれているので、武田勝頼に関する史跡だと思うのですが詳細不明です。というより、案内碑が高いところにあったため、説明書きが読めなかったのです〜・・。 おそらく、落ち延びてきた勝頼主従がここにあった沢で血で染まった身体を洗ったとかそんな言い伝えがあるのではないでしょうか?(違っていたらごめんなさい) 今来たところへ戻る△ |
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鞍懸 この地は、逃亡する長坂長閑が土屋惣蔵に追われ落ちた鞍が、路傍の桜の木にかかっていたところと言われています。 長坂長閑は武田信玄・勝頼父子に仕えた武将です。どちらかと言えば、文官タイプでした。しかし、ものの本によると、土屋惣蔵も勝頼の家臣だとか・・・。 今来たところへ戻る△ |
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聖観音堂 本尊は、聖観世音菩薩で、京都清水より移したものと言われており、養蚕の守護神として信仰の対象とされています。また、芭蕉もここで句を詠んでいます。 ところが、人工のトンネルの上に案内碑がありましたが、肝心の観音堂はどこに? 今来たところへ戻る△ |
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横吹諏訪神社 この社は、諏訪神社の分社で、古来より地域の産土神として信仰されています。 国道20号沿いに建てられていました。 今来たところへ戻る△ |
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柏尾古戦場跡 明治元年(1868)、元新撰組の局長・近藤勇が率いた甲陽鎮撫隊と板垣退助を参謀とする官軍がこの地で戦いました。結局、甲陽鎮撫隊はあえなく官軍にやぶれてしまいました。 この頃の近藤勇は、過去の栄光にすがりついてしまったばかりに、大きな過ちを犯してしまったのです。 今来たところへ戻る△ |
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大善寺 大善寺は、養老2年(718)に行基が開いたとされる真言宗寺院です。安元2年(1176)と文永7年(1270)の二度の災禍で焼失しましたが、本堂は弘安9年(1286)、後宇多天皇の勅願を奉じて、北条貞時によって再建されました。 東へ向かう勝頼一行もここで戦勝を祈願して一夜を明かしているそうです。 そんな大善寺、国宝や国・山梨県の重要文化財がてんこ盛りです。 今来たところへ戻る△ |
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国見坂 元和7年(1621)に甲州街道の往還筋の地名として定められたそうです。 「国見坂」が地名? 今来たところへ戻る△ |
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2003.6.23update
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