東海道を歩く(東海道五十三次) / 歴史探訪 | |
東海道:藤枝宿〜島田宿 |
藤枝宿 東海道22番目の宿場です。 田中藩の城下町であり、東西2qと広大な規模を誇りました。 現在、宿場はそのまま長大な商店街となっています。本陣・脇本陣などの史跡はほとんど残っていませんが、藤枝だるまや桐箪笥などの伝統工芸が現在も受け継がれているようです。 今来たところへ戻る△ |
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藤枝宿東木戸口跡 東木戸口に立つ標柱です。この辺りが東側からの藤枝宿の入り口に当たるようです。 今来たところへ戻る△ |
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白子由来記の碑 本能寺の変の折、家康の危機を救った伊勢国白子の小川孫三が、天正14年この地を賜り白子町と称しました。 今来たところへ戻る△ |
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本願の松 享保15(1730)年、正定寺の弁財天に信仰が篤かった田中城主・土岐丹後守頼稔が、大阪城代に登用された報恩謝徳として寄進したと言われています。 傘形に枝張りした美しい姿が印象的です。別名、延命の松といいます。 市の天然記念物に指定されています。 今来たところへ戻る△ |
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田中藩領傍示石蹟 瀬戸新屋は、田中藩と掛川藩領が入り組む特異な村でした。そのため、藩境に「従是東田中領」と記した傍示石が建てられていました。 今来たところへ戻る△ |
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六地蔵堂 鐘ヶ池に棲んで旅人を悩ませていた龍を、鬼岩寺二世静照上人が修法により退治しました。 その際に鏡池堂が建てられ、智証大師作の六地蔵を祀ったといわれています。現在の堂は、昭和33年に昔の形を残して改築したもの。 今来たところへ戻る△ |
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古東海道蹟 昭和30年代までは、ここから西に瀬戸山の丘が続いていました。 この道が中世からの瀬戸の山場丈と呼ばれた古東海道です。 今来たところへ戻る△ |
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東海道追分 瀬戸新屋や水上は池・湿地が多く、中世の東海道はこれを避けて南に大きく迂回していました。 湿地の開拓が進んで開けた新しい東海道と、古東海道の分岐点が追分と呼ばれています。 今来たところへ戻る△ |
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千貫堤 寛永12(1635)年、田中城主水野忠善は、無縁寺の山裾から正泉まで約360m、高さ3.6m、幅29mの大堤防を一千貫もの労銀を投じて造築しました。 石野家の南側に約40mの堤が現存しています。 今来たところへ戻る△ |
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瀬戸の染飯版木の標柱 染飯とは、くちなしで染めた強飯をすりつぶして、薄く小判型にして乾かしたものです。 古東海道であった瀬戸の山道の茶屋で売られ、くちなしは足腰が強くなると言われて名物となっていました。 現在でも、藤枝駅前の喜久屋で売られています。 今来たところへ戻る△ |
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上青島一里塚址 江戸から51里目に当たる一里塚跡です。 昭和初年までは、街道から十間ほど南の水田の中に土が盛ってあり、周囲は石垣で囲んでありました。榎ではなくて、桑の木が植えられていたそうです。 今来たところへ戻る△ |
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2002.3.16update
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