東海道を歩く(東海道五十三次) / 歴史探訪


東海道:吉原宿〜蒲原宿
吉原宿〜高潮の影響で2度も移転した宿場は、今は立派な商店街になっています 吉原宿
東海道14番目の宿場です。吉原宿は、もともとは田子の浦に面した宿でしたが、高潮の被害を受け2度も北へ移転した宿場なのです。このため、東海道は、吉原の付近で大きく北へ迂回しています。
現在、宿場のあった辺りは、吉原本町の商店街となっており(写真左)、宿場に関する史跡は何も残っていません。

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(元)吉原宿跡の碑です (元)吉原宿跡
元来、吉原宿があった場所を示す跡碑です。
今は、この辺りは工場の集積地となっており、往時の面影は何も残っていません。唯一、手前にある松が救いでしょうか。

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左富士神社 左富士神社
左富士神社です。この少し先にある名勝左富士に関連した神社だと思われますが神社に関する詳細は不明です。

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名勝左富士〜いつもは右側に見える富士山が左にっ!? 名勝左富士
東海道を西に向かう時は、富士山はいつも右側に見えますが、ここは道のひずみにより左側に見えるため、「左富士」と呼ばれ、街道の名勝となっています。
私自身が左利きであるため、こういう特異性はとても気になり、思わず反応してしまいます。
なお、左の写真では分かりづらいですが、松の左側にかすかに富士山が見えませんか?
(→写真館

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平家越えの碑〜ここも歴史を偲ばせる場所です 平家越えの碑
治承4年(1180)、富士川と浮島沼の接する辺りに陣取った平家の軍勢が、源氏の迂回作戦で飛び立った水鳥の音に驚き敗走したと言われています。
当時、この辺りは広大な沼地だったようです。

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天神社 天神社
吉原宿付近にある天神社です。

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鶴芝の碑です 鶴芝の碑
間の宿・本市場から眺める雪の富士は、中腹に一羽の鶴が舞うようでした。画家・廬州の描いた絵に江戸の学者亀田鵬斉が詩文を添え、文政3年(1820)、「鶴の茶屋」に碑が建てられました。

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一里塚の碑です 本市場の一里塚の碑
本市場にあった一里塚の碑です。
碑の周りには、地元住民が植えたと思われるきれいな花がたくさん咲いていました。

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札の辻跡です 札の辻跡
昔の高札場の跡です。岩本山実相寺は方一里と称せられ、南はこの辻跡付近まで及んでいたと言われています。

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左東海道の道標と秋葉山常夜燈 左東海道の道標と秋葉山常夜燈
慶応元年に建立された秋葉山常夜燈です。

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松岡水神社です。すぐ横に富士川が流れています 松岡水神社
富士川ほとりにある松岡水神社です。
社伝によれば、代官古郡孫太夫が堤防普請の成就を記念して創建したと言われています。
幕末には、富士川渡船は、もっぱら当神社前からの下往還が使われ、その安全を祈願する人々が多く訪れたと言います。

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岩淵の渡船場跡 岩淵渡船場跡
間の宿・岩淵の渡船場跡です。
向こう側に見えるのは富士川ですが、昔は橋がかかっておらず、渡船によって川を越えました。

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新豊院 新豊院
かつての名称を光明山心包院といいました。山門は、本柱をもんの中心線から前方にずらし、本柱と控柱を結ぶ梁の中間の上に東をたてて屋根をのせる、薬医門の形式です。

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岩淵の一里塚です 岩淵の一里塚
江戸から37番目に当たる一里塚です。
左側の塚はほぼ往時のままの塚として残っており、また右側の榎木の巨木は、江戸期からのものと推定されます。
住宅地の中にひっそりとたたずんでおり、生活の中に溶け込んでいました。

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蒲原一里塚跡 蒲原一里塚跡
蒲原の一里塚跡です。江戸から数えて38番目の一里塚です。
ここまでくれば、もうすぐそこが蒲原宿の入り口です。

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2001.12.09update


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