東海道を歩く(東海道五十三次) / 歴史探訪 | |
東海道:箱根宿〜三島宿 |
箱根宿 元和4年(1618)、西国大名の要請により、箱根峠越えの労苦を緩和するために新たに設置された宿場です。宿場規模はそれほど大きくなかったものの、本陣は6軒を数え、東海道中でも最多を誇りました。 現在は、箱根の関所が復元されているほかは、旅館や土産物屋が建ち並び、当時の街並みの面影はあまり見ることができません。 今来たところへ戻る△ |
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箱根神社 かつては箱根権現と呼ばれ、箱根山岳信仰の拠点として源頼朝や北条氏をはじめとした武将たちの崇敬を集めました。 ここには掲載しておりませんが、芦ノ湖畔に建てられている朱塗りの鳥居は箱根を代表する景観の一つでもあります。 今来たところへ戻る△ |
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賽の河原 古くから、地蔵信仰の霊地として、参拝者を集めていたところです。江戸時代には、その規模も大きく、多くの石仏、石塔がありましたが、明治に入って廃物き釈(はいぶつきしゃく)の際、多くの石仏が失われてしまいました。 騒がしい街並みの一角にぽつんと存在している一種の異空間が広がっています。 今来たところへ戻る△ |
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一里塚 杉並木の中にあった、一里塚の碑です。 今来たところへ戻る△ |
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杉並木 芦ノ湖畔の旧東海道にあるこの杉並木は、元和5年(1619)、植えられたと伝えられていますが、実際の樹齢はそれより40年ほど若く、350年前後の木々です。現在でも400本あまりの大木が、道の両側に植わっており、昔を思い出しながら歩くことができます。 (→写真館) 今来たところへ戻る△ |
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箱根関所跡 箱根関所は、江戸時代の元和5年(1619)に設けられたと言われてまして、明治2年(1869)に廃止になるまで、江戸時代の守りを固めるため、主な街道に設けられた関所の一つです。 その主な業務は、『出女』(諸大名の奥方たちを人質として江戸に住まわせていたため、この婦人達が密かに江戸を出ること)と、『入鉄砲』(鉄砲などの武器が江戸に持ち込まれること)を中心に一般の通行人までも厳しく取り締まりました。 今来たところへ戻る△ |
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向坂 箱根宿を出て、初めてぶつかる坂です。坂の入り口に石仏群があります。 あまり人が通らないためか、かなり草の生い茂った坂です。石畳もあります。 今来たところへ戻る△ |
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挟石坂 向坂の後に現れる坂で、とっても急な坂です。 当時の浮世絵を見ると、相模と伊豆の国を分かつ標柱と、ゴロゴロした石、それに一面のカヤしか画かれていない、まことに荒涼たる峠でした。 この坂を登り切ったところが国道1号線との合流地点です。(写真の箇所が合流地点) 今来たところへ戻る△ |
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八ツ手観音像 八本の手を持つ、三面八臂、高さ50センチの馬頭観音像です。冠には馬頭が表され、台座には「天保八年五月吉日、箱根宿世話人 兵治良嘉兵衛」とあります。言成地蔵尊の話に登場する尾張屋源内の墓という説もあります。 今来たところへ戻る△ |
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箱根八里記念碑 (社)三島青年会議所が箱根八里復活の礎となることを期待してつくったものであり、計8人の現代一流の文化人の言葉を記した碑を要所要所に置きました。 左の写真は、井上靖氏の「北斗闌干」という言葉で、この意味は、北極星がさんぜんと輝くさまのことです。 今来たところへ戻る△ |
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兜石跡の碑 元々兜石があった場所のようです。兜石は、今は、別の場所にあります。 今来たところへ戻る△ |
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接待茶屋跡 江戸時代、箱根山金剛院別当が始め、後には江戸日本橋の豪商・加勢屋与兵衛が箱根を往来する者の苦難を憐れみ、馬や継人足、困窮者に、飼い葉・粥・たき火等を施した場所です。昭和25年まで続けられたそうです。 今来たところへ戻る△ |
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兜石 兜を伏せたような形の石です。豊臣秀吉が小田原城を攻める時、休息してこの石の上に兜を置いたと言われています。 今来たところへ戻る△ |
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念仏石 石原坂を下る途中の北側に突き出た大きな岩は、念仏石と呼ばれ、その前には、約1メートルの自然石に「南無阿弥陀仏・宋閑寺」と刻んだ碑があります。旅人の行き倒れを宋閑寺で供養して建てたものと言われています。 今来たところへ戻る△ |
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2001.10.31update
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