東海道を歩く(東海道五十三次) / 歴史探訪 | |
東海道:小田原宿〜箱根宿 |
大沢坂 大沢川を渡ったところです。幕末の下田奉行小笠原長保の『甲申旅日記』に、「大沢坂又は坐頭転ばしともいうとぞ、このあたり、つつじ盛んにて、趣殊によし」と書かれています。 当時の石畳の道が、一番よく残っている坂で、苔むした石畳は、往時をしのばせてくれます。 しかし、雨の降った後などはとても滑りやすいので要注意です。 今来たところへ戻る△ |
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本陣茗荷屋敷跡 畑宿が立場として栄えた江戸時代中期、旅人たちの間で話題になった庭園があったお屋敷跡です。 屋敷は燃えてしまいましたが、庭園は健在で、現在でも見学は可能だということです。 今来たところへ戻る△ |
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寄木会館(よせぎかいかん) 箱根の伝統工芸品・寄木細工の職人さんの実技を見学できるところです。 お土産品を買うことも出来ます。 今来たところへ戻る△ |
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畑宿の一里塚跡 江戸日本橋から数えて、23番目にあたる一里塚です。平成10年、復元整備が完成しています。 今来たところへ戻る△ |
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西海子坂(さいかちざか) ここは、かつて一瞬でも気を抜けば谷底に落ちるような急坂で、実際に落馬をして即死した早飛脚もいたそうです。 というより、今でもかなりの急勾配・・・この坂を馬で登ろうとするなんてことは至難の業だったことでしょう。 今来たところへ戻る△ |
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橿の木平 「橿の木のさかをこゆれば、くるしくて、どんぐりほどの涙こぼる」と歌われているとおり、かなり急勾配の橿の木坂を登り切ったところにあります。 「ここが箱根の樫の木平、下に見ゆるは畑の茶屋」と馬子唄にも歌われた見晴茶屋の跡でもあります。 ちなみに、この日はあいにくの天候で、何も見ることが出来ませんでした。 今来たところへ戻る△ |
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猿滑坂(さるすべりさか) 『新編相模国風土記稿』には「殊に危険、猿猴といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす。」と、難所らしい坂の名の由来が書かれています。 その名の通り、猿でも用心する坂なのです。 今来たところへ戻る△ |
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追込坂 『新編相模国風土記稿』のふりがな(万葉がな)を見ると、フッコミ坂といったのかもしれません。甘酒茶屋までのゆるい坂道の名です。 このゆるい坂を箱根方面に歩いていけば、甘酒茶屋に到着するのです。 今来たところへ戻る△ |
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旧街道資料館 江戸時代の旅人の携行品などが展示されています。 この施設自体も、茅葺き屋根になっており、とても情緒があふれています。 今来たところへ戻る△ |
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甘酒茶屋 赤穂浪士神崎与五郎が東下りの折、雲助に詫び証文を書いたという講談で有名だそうです。 昔は数多くあった茶屋も、現在はこの1軒のみとなってしまいましたが、ここでは甘酒や餅を頂けるなど、当時の面影を思い浮かべることができます。 今来たところへ戻る△ |
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於玉坂 元禄15年(1702)に起きた少女お玉による関所破り事件のゆかりの場所となっています。お玉は、結局死刑になりました。 お玉が処刑された場所が池のほとりだったため、その池はお玉ヶ池と呼ばれるようになりました。池は、この坂近くの県道732号沿いにあります。 今来たところへ戻る△ |
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天ヶ石坂 「天ヶ石」と呼ばれる街道にせり出す巨石(写真に写っている大きな石がそうです)がその坂の名の由来です。 今来たところへ戻る△ |
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馬子唄の碑 「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」という、世に有名な唄が書かれた碑です。 しかし、馬で越せたかどうか、非常に疑問を感じるところもありました。 今来たところへ戻る△ |
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権現坂 小田原から箱根路をのぼる旅人が、いくつかの急所難所をあえいでたどりつき、一息つくのがこの場所です。芦ノ湖が見えてくる、一番景色の良い下り坂でもあります。坂の長さが8町あるので、八町坂とも言われています。 今来たところへ戻る△ |
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ケンペル・バーニーの碑 日本を、そして箱根を愛し別荘を建て、晩年を送ったイギリス人貿易商モンタギュ・バーニー氏と、箱根山を二度越えたドイツ人博物学者エンゲルト・ケンペルの2人を讃えた碑です。 箱根の美しさを世界に紹介しました。 今来たところへ戻る△ |
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2001.10.18update
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