東海道を歩く(東海道五十三次) / 歴史探訪


東海道:小田原宿〜箱根宿
小田原宿を格づける小田原城の雄姿 小田原宿
小田原宿は、江戸を出てから最初の城下町であり、かつ天下の険の箱根峠を西に控えた宿として、東海道中でも有数のにぎわいを誇っていました。
神奈川県内の宿では、最大で、本陣脇本陣ともに4軒、普通の旅人が泊まる旅籠は95軒を数えました。
現在においても、小田原城をはじめとした当時を思い浮かべることができるように、町並みが整備されています。

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江戸から来た人のための小田原宿玄関口−江戸口見附 江戸口見附・一里塚
後ろに少しだけ見えている松の老木が、小田原宿の東の玄関口、江戸口見附跡です。
見附・・つまり、ここが宿場の入り口付近だったのです。

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小田原城・・・関東の名城であるとともに、日本の名城でもあります 小田原城
北条氏の居城として発展し、江戸時代には関東地方の防御の要とされた巨城です。現在は、昭和35年に復元された天守閣を中心に、城址公園として整備されており、二の丸には小田原城歴史見聞館があり、当時の様子をうかがい知ることができます。
ちなみに、左の写真は、城郭に入る前に撮った銅門(あかがねもん)とお堀です。
(→写真館

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報徳二宮神社・・・立派な神社でした 報徳二宮神社
小田原の生んだ農聖、尊徳二宮金次郎を祀るために、明治27年に建てられました。

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大久寺・・・大久保一族の氏寺です 大久寺
日蓮宗で、小田原大久保一族の氏寺であります。寺内の墓所には、忠世をはじめ、大久保一族墓があります。
しかし、私は見つけることが出来ませんでした・・・。

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長興山紹太寺|風格のあるお寺でした。 長興山紹太寺
小田原城主、稲葉美濃守正則が父母の追福のため、寛永12年(1635年)、創建したものであり、江戸時代の初期に小田原藩主であった稲葉一族の菩提寺でもあります。宇治万福寺から招かれた鉄牛和尚が開山しました。

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稲葉氏一族の墓です。かなり山奥にありました 稲葉氏一族の墓
上記紹太寺を創建した稲葉氏一族の眠っているお墓です。紹太寺をさらに上に登っていくと、奥地にひっそりと並んでいます。
同墓所は、小田原市の指定史跡になっています。

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長興山のシダレザクラ・・・一度花の咲いているところを実際に見てみたいですね 長興山のシダレザクラ
木の高さ13m、枝張りの範囲直径13m、樹齢は320年以上を誇るシダレザクラです。小田原市指定天然記念物であり、かながわの名木100選にも選ばれています。
時期的に1週間ほど早かったため、また花を咲かせていませんでしたが、咲いた時はさぞかし見事であろうと推測できます。
(→写真館

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早雲寺です。なかなか立派なお寺です 早雲寺
大永元年(1521年)、北条早雲の子供である北条氏綱が父・早雲の遺命により建てた、京都紫野大徳寺の名刹です。
寺の中には、北条五代のお墓があるそうです(私は発見できませんでした)。

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正眼寺です 正眼寺
慶応4年(1868年)の戊辰戦争の時、「山崎の戦い」において敗走する遊撃隊に放火され消失しました。現存の本堂は、昭和7年に別荘を移築したものです。

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箱根観音です。急な階段を下ったところにひっそりとありました 箱根観音
観音坂の途中、少し階段を降りたところにある観音様です。その観音坂の由来ともなっています。

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鎖雲寺入り口には、涼やかな小さな滝がありました 鎖雲寺
夫唱婦随で見事仇討ちの本懐を遂げた物語「箱根霊験記」で有名な勝五郎とその妻初花のお墓があります。

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女転ばし坂。現在は通行禁止になっています 女転ばし坂
須雲川を渡って、最初の坂です。寛文12年(1672)の須雲川村の記録に、「先年通りの女馬より落ち相果て申候に付き、女ころばし坂と申し候」と書かれています。いかにも東海道の難所をしのばせる坂の名となっています。

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割石坂入り口です 割石坂
曽我五郎が、富士の裾野に仇討ちに向かう時、腰の刀の切れ味を試そうと、路傍の巨石を真っ二つに切り割ったところ、と伝えられています。
この坂の石畳は、一部江戸時代のものが残っていて、その場所は立て看板により確認することができます。

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2001.10.18update


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