東海道を歩く(東海道五十三次) / 歴史探訪 | |
東海道:浜松宿〜舞坂宿 |
浜松宿 東海道29番目の宿場です。 元亀元年(1570)に徳川家康が遠州支配の拠点として入城して以来、浜松城の城下町として大きく発展しました。 宿場町としては、本陣が6軒と、箱根と並んで東海道でも最大規模を誇りました。しかし、太平洋戦争で町がほとんど焼けてしまったあとは、街自体は都市化が進んだものの、歴史的なものとしては、お城が復元されたほかは、石碑・看板等が残ってるのみです。 今来たところへ戻る△ |
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蓮華寺 家康の家臣の鳥居四郎左衛門忠広の妻が創建したと言われています。 今来たところへ戻る△ |
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五社神社 もとは浜松城内にありましたが、天正7年(1579)徳川2代将軍秀忠が誕生し、産神として翌年現在地に遷座しました。昭和35年に諏訪神社と合祀されています。 今来たところへ戻る△ |
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浜松城 徳川家康が遠州攻略の拠点として、引間城を拡大して築いた城で、元亀元年(1570)に入城し、17年間在城しました。 浜松城の石垣は、野づら積みと呼ばれる堅固なつくりとなっています。昭和33年に天守閣が再建されました。 今来たところへ戻る△ |
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本陣跡 浜松宿内にあった本陣跡です。 浜松は、とても規模の大きい宿場で本陣は6ヶ所にありました。6ヶ所あったのは浜松と箱根のみでした。 現在は、本陣があった場所に左の写真のような看板が建てられています。 今来たところへ戻る△ |
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鎧橋 平安時代末期、比叡山の僧兵が鴨江寺を攻めた時、鴨江寺側の兵は辺り一帯の田に水をはり、鎧を着てこの橋の守りを固めて戦ったところから鎧橋の名がつきました。双方の戦死者千人が橋の北側に葬られ千塚と言われました。 今来たところへ戻る△ |
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二つ御堂 奥州平泉の藤原秀衡が京都で大病と聞いた愛妾が京へ上る途中、ここで秀衡死去の誤報を聞き、その菩提を弔うために北のお堂(阿弥陀如来)を建立。一方、京の秀衡は病が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝を込めて南のお堂(薬師如来)を建てたと言われています。 今来たところへ戻る△ |
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2002.4.18update
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