#第8日目|岐阜−美濃太田 平成17年(2005)5月14日(土) 天気:晴
■街道復帰して本格スタート 一部ビオトープ化された駅前から続く小川横のプロムナードをのんびり歩きつつ、前回終えた地点に到着。いよいよ本格的なスタートだ。前回気づかなかったが、橋脇に高札場跡案内碑が立てられている。ちなみに、まだこの辺りは加納宿内である。川を渡ってそのまま北に向かい、かどやの見える交差点で右折。その先には歴史の感じられる家屋が点在し、往時の情景を偲ばせてくれる。 |
小川 |
高札場跡案内碑 |
交差点(正面にかどや) |
歴史の感じられる街並み |
■今昔木曾街道六十九次−加納− 加納宿は、江戸時代に徳川家康によって制定された中山道沿いに出来た宿場で、その南方に加納城が築かれた。広重は、街道沿いから、その加納城を望む風景を描いている。しかし、現在は加納城そのものは跡地と化し、かつ街道と城跡の間には、たくさんの建物が林立しているため、平成の風景は、ただの街道風景になっている。 |
■曲尺手状の加納宿をゆく 右手に立派な鐘楼を持つ専福寺やよさげな家屋を見つつ、信号のない大通りを渡る。宿場案内碑の先、右手に善徳寺のあるT字路で左折。そして、大通りに合流する手前で右折。そこに植わる柳の木の下に、東番所跡碑がある。ここが宿場の東の入口か。そのまま直進すると再びT字路にぶつかるので、ここを右折。T字路左手に小さな道標があるので要チェック。この辺りの街道は、かつての城下町の名残か、曲尺手状になっている。 |
専福寺 |
よさげな家屋 |
宿場案内碑 |
善徳寺 |
東番所跡碑 |
道標 |
宿場を偲ばせる橋 |
だんごや |
■加納宿を抜け次の宿場を目指す 曲尺手の道が続き、ちょっと混乱気味だが、ここから街道は西に一直線に続くことになる。右手に鏡岩の碑を見つつ(京から日本橋に向かう人はちょっとわかりづらいです)、名鉄・茶所駅を過ぎると、左手に黒板塀が続く家屋がある。しかし、さっきから見所が多くて、歩き始めて間もないのに忙しいぞ。 |
鏡岩の碑 |
茶所駅 |
黒板塀の続く道 |
大きな家屋 |
■地蔵堂と伊勢道追分道標
しばらく歩いていると、右斜め手前に続く道との分岐点にさしかかる。分岐点の付け根には、地蔵堂と追分道標が立てられている。 |
■細畑一里塚 地蔵堂の先には、細畑一里塚がどーんと街道脇にそびえていた。こんな街中で両塚健在はなかなか珍しい。よく残ったもんだと、両塚に植えられている榎の木をポンポン叩きたくなってしまったが、塚上なので手が届かず。 |
■諸々の史跡に立ち寄りつつ、新加納へ 一里塚を後に、立派な家屋の見られるよさげな街並みをゆく。途中、誓賢寺や伊豆神社(創立不詳)を横目に、さらにはウォーカー集団とすれ違うと、目の前に大きな鳥居が見えてきた。手力雄神社の大鳥居だ。この鳥居をくぐってまっすぐ進むと神社へゆくのだが、街道はここを左へ。しばらく落ち着いた住宅街をゆく。 |
よさげな街並み |
誓賢寺 |
伊豆神社 |
手力雄神社鳥居 |
岐阜市から各務原市へ |
竹林 |
善休寺 |
ここを右折 |
■間の宿 新加納 加納宿−鵜沼宿間は、約16.5kmと距離があるため、中継点として間の宿が設けられた。間の宿では、宿泊出来ないことになっているが、実際には宿泊していたようだ。現在は、往時の建物は残っていないが、落ち着いた街並みと曲尺手状となっている道路が往時を偲ばせてくれる。ちなみに、皇女和宮様も、ここで休憩されたようだ。 |
■各務原の商店街をゆく 宿場の名残を見せる、曲尺手状の通りを進むと、道は大通りに合流。なんだか賑やかになってきたな〜と思ってきたところに、「なか21モール」と書かれた巨大なアーケードが。どうやら各務原市の商店街のようだ。道の両脇には、店舗が建ち並んでいるが、一部の店舗は土曜なのにシャッターを閉めたままだ。 |
曲尺手状の通り |
大通りに合流 |
なか21モール |
那珂橋より新境川を望む |
■各務原市民公園
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■ナッシー 公園を後にすると、左手に警察署。その警察署の前に、ナッシーが吠えていた!! |
■信長人気はすごい ナッシーを後にすると、左手にものすごい立派な各務原市役所庁舎。航空自衛隊基地があるから、潤っているんだろうなぁ>各務原市。その先、国道沿いのバス停に信長町の文字がっ!!もちろん織田信長から来てるに間違いない。信長は、どこに行っても人気がありますな。 |
各務原市役所 |
信長町! |
六軒一里塚跡 |
ついに国道に合流 |
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2005.5.29update