#第7日目|美江寺−岐阜 平成16年(2004)11月21日(日) 天気:晴


中山道行程図〜第七日目|美江寺−岐阜


■中山道放浪第7日目スタート
放浪第7日目の出発点は樽見鉄道美江寺駅
【樽見鉄道美江寺駅】
 珍しく早く起きることが出来たので、いそいそと準備をしてホテルを後に。岐阜駅に到着後、ホームに上がると、ちょうど太陽が昇りつつあった。今日も天気が良くなりそうだなぁ。
 12分で大垣駅に到着。ここで樽見鉄道に乗り換え。乗り換え時間は、時刻表曰く2分なので走ったのだが、結構余裕だった。1両しかない車内は、席がほどよく埋まるほどの混雑ぶり。ほどなくして出発。
 運転手が車掌も務めているのだが、この運転手、ものすごい気合いが入っていてビックリ。14分で美江寺駅に到着。
 昨日のマメがひどいので、靴下を二重履きにして出発!今日は、無理をやめようっと。(7:37)


■日が昇り始めた
 まずは、ちょっと前に通過した樽見鉄道の踏切を渡る。渡ってすぐ左手に「オオクワガタ直売します」の黄色い看板。今の子供は、「クワガタは買うもの」だと思っているのかなぁ。
 前方の太陽が徐々に明るさを増しつつある。もう11月も半ばを過ぎているのに、あまり寒くない。やはり今冬は暖冬なのだろうか。電柱の看板には、巣南町美江寺の文字。これは、旧町名+字だが、現在は瑞穂市巣南町美江寺が正解。合併のなれの果てか。その先右手に「昭和51年9.12豪雨浸水位」と書かれた看板。当然知るよしもないが、今の異常気象ならこんな災害がいつ起きてもおかしくない。
樽見鉄道踏切を渡ります
樽見鉄道踏切
もう今はクワガタを買う時代なのでしょうか?
クワガタ販売看板
市町村合併は、字をなくしていきます
合併の影響?
当然記憶にありません
昭和51年豪雨

 しばらく進むと、左手に高札場跡。その先左手に本田代官所跡。一時期、この辺りに幕府直轄地があったという。ちなみに、案内板後ろの建物は、本田さんではなかった。そのちょっと先に「中山道町並」と書かれた標柱があり、よさげな家屋が見られる。さらに進むと、糸貫川手前に延命地蔵堂
日本橋方面から来ると、見逃しやすいので注意!
高札場跡
後ろの建物は、関係ないそうですがよさげ
本田代官所跡
良い感じです
よさげな壁景観
延命地蔵堂
延命地蔵堂

 糸貫川を渡り、静かな街中をゆくと、道は右に緩くカーブ。左手に馬場の地蔵。地元の人の取り組みが良い感じ。そこから、道は南東に向かって一直線。まぶしーーー。まぶしさに耐えつつ、道なりに進む。
 左手前にコンビニのある生津交差点を横切った後、工場の見られる一角がかつての生津畷跡。往時の面影ゼロ。その先、細い川を渡る。渡って左手に「河渡宿」と書かれた日本歴史街道の標柱。河渡宿も近い。
瑞穂市は中山道に力を入れている?
馬場の地蔵
太陽がまぶしーー
直進
面影ゼロ
生津畷跡
間もなく河渡宿
河渡宿標柱

■河渡宿
 河渡宿。「ごうど」と読む。三条大橋から、ここまで歩いてきた中で、最も寂しい部類に入る宿場だ。往時は、長良川の河渡し手前の宿場として、かなり賑わっていたようだが、現在は空襲に遭い街は全焼・・・往時の面影はなくなってしまったという、悲劇を持っている。
 唯一の見所は、宿場中央部にある一里塚跡松島神社石碑くらいか。
河渡宿入口 河渡宿の街並み 河渡宿の街並み 一里塚跡
松下神社石碑〜かけてしまってます 河渡宿の街並み 河渡宿の街並み 宿場の終わりには長良川の土手

■長良川を渡る
 あっという間に宿場を抜けると、長良川土手があるので、登ってみる。おー眺め良いぞー。かつては、渡しがあったが現在はない(と、この時は思っていた)ので、長良川を河渡橋を使って反対側へ。
 後で知ったのだが、「小紅(おべに)の渡し」なるものが、ちょっと上流にいったところで運航されているらしい。せっかくの機会を逃したのは残念だった。しかし、歩いている時は、そんなこと知るよしもなく。
長良川土手
長良川土手
水量豊かです
長良川
国道は車の交通量が多い・・・
川を渡って
のどかな風景
長良川土手


■今昔木曾街道六十九次−河渡−
 三条大橋から辿ってきて、初めて目にする「英泉」画の作品である。英泉は、その土地その土地の特色ある風景を描いていること、人物画が大きいことなどが素人目から見て特徴かなと。
 その英泉。河渡宿の絵では、長良川の鵜飼いの様子を描いている。残念ながら、鵜飼いは5月〜10月に行われるため、今の時期には見ることが出来ない。そのため、とりあえず橋の上から長良川を撮影。
木曾街道六十九次 河渡 英泉作


■歴史を感じつつゆくが・・車多し
 川を渡って、斜めに続く道をゆく。ところどころに落ち着いた家屋が見られるのが良い感じだ。なんて、のんびり歩いていたら、徐々に車の交通量が・・やんなっちゃうな。北野神社神明社などを左手に見つつ、これまた左手にボロイ和洋折衷建築。昔は何に使っていたのだろう・・なんて思っていたら、てっぺんに「〒」のマークが。
 その先、格子の見られる家屋を横目に歩く。するとなにやら前方が騒がしくなってきた。
巨木に囲まれています
北野神社
境内の樹木が見事です
神明社
かつての郵便局
和洋折衷建築
数軒見かけました
格子窓の家屋


■人で溢れかえる乙津寺(鍋島弘法)
鍋島弘法
【乙津寺】
 車道が規制されて一方通行になり、ひっきりなしに前方からバスや自動車、人々がやってくる。その人々、一様にビニール袋を持っている。なんだろうと思いきや、この先の乙津寺にて月一度の縁日の日だそうだ。
 参道には、ものすごい人と屋台の数でビックリ。地元の人々に慕われているのだろうなぁ。ちなみに、この乙津寺、命名はなんと弘法大師様だ。(写真の上にマウスを載せると、縁日の写真が出てきます)


■街中を抜けるといよいよ加納宿へ
 乙津寺を後に、人の流れと逆行する形で街道を進む。岐阜街道との追分で右折。しばらく住宅街をゆく。天満神社立派な酒屋干し柿など、街道を構成するものを見ていると、前方に鉄道高架が見えてきた。これをくぐってすぐに左折。鉄道高架に平行に進む道をゆく。その先、Y字路になるので、右へ。車の往来が少なく、落ち着いた住宅街が続く。
 秋葉神社の横に公園があったので、少々休憩していくことに。うわぉー足のマメがすごいことになってるぞ。ここで、手持ち資料を確認すると、今歩いてきた手前・松原町という所に一里塚跡碑があるというので、戻って探しに行く。で、無事発見。
ここを右折
岐阜街道追分
天満神社
天満神社
見事です
立派な酒屋
優良景観です
干し柿
ここをくぐってすぐに左折
鉄道高架をくぐりすぐに左
細い方です
ここは右へ
神社横には公園が
秋葉神社
一里塚跡石碑
一里塚跡

■加納宿をゆく
 右手に西番所跡石碑があるところから加納宿。岐阜県の県庁所在地に位置する本宿場町は、現在の繁華街である北側とは反対の南側に位置しており、落ち着いた街並みが続いているが、往時の面影はほとんど感じられない。脇本陣跡問屋跡本陣跡、全て「跡」で、碑があるのみである。
 そんな中で注目すべきは、まず二文字屋。かつての旅籠である。そして、その先のぼろっちい建物が、旧加納町役場
西番所跡 曲尺手 案内板 脇本陣跡
紙(&竹?)で出来た白像 加納天満宮 脇本陣跡 西問屋跡〜現在は松波医院
皇女和宮の歌碑 宿場を示す標柱 木曾街道六十九次加納宿の絵 当分本陣跡
道標 二文字屋 旧加納町役場 加納城大手門後石碑


■加納城跡
加納城跡
【加納城跡】
 途中、加納城大手門跡石碑のところで街道を離れて加納城跡へ。もちろん、現在はただのグラウンド状態となっているが、本丸の石垣を見ることが出来る(写真の上にマウスを載せて下さい)。

 岐阜と言えば、斉藤道三、織田信長の居城・岐阜城(稲葉山城)が主だったが、江戸時代になってから、徳川家康により加納城を築き、中山道沿いに宿場(加納宿)を設けたのが始まりという。


■第7日目の中山道放浪終了
近代的な岐阜駅で終了
【終着点・岐阜駅】
 まだお昼前だが、この日はここで終了。次回の旅を考えて、交通の便の良いところで終えるのは、街道歩きの鉄則だ。また、昨日無理しすぎたせいで出来てしまった大きなマメが、かなりひどくなってしまったというのもある。相変わらずマメが出来るのはなんでだろう。
 ほどなくして岐阜駅に到着。帰りは、名古屋駅で前回買いそびれたみそかつ&えびふりゃー弁当を購入して帰ろうと心に秘めつつ、切符を購入するため、みどりの窓口に向かった。(つづく)
→第八日目|岐阜−美濃太田 へ


歩数計 18,630歩
カロリー 943.0kcal
距 離 13.04km
時 間 7:37〜11:45
支 出 交通費|−−円
飲食費|−−円
その他|−−円

2004.12.31update


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