#第6日目|関ヶ原−美江寺 平成16年(2004)11月20日(土) 天気:晴


中山道行程図〜第六日目|関ヶ原−美江寺


■いよいよ赤坂宿へ

 おそらく現在は廃線状態となっている貨物線(西濃鉄道)の踏切を渡ってすぐ右手に兜塚。関ヶ原の戦い前日の杭瀬川の戦いで戦死した武将を鎧兜と共に葬ったことからこの名がついている。また、この兜塚付近は、御使者場跡となっており、この辺りから赤坂宿が始まっている。そのためかどうかわからないが、街の雰囲気も変わってきて、ついでに車の交通量も多くなる。左手をなにげに見てみると、金生山がすぐ近くに見える
今は作動しない踏切
踏切
御使者場跡と同じ場所です
兜塚
ここが赤坂宿の入口
御使者場跡
だいぶ近くなってきました〜写真わかりづらくてすみません
左手に金生山



■赤坂宿をゆく その1
 これまで何度も述べているが、中山道沿いの宿場は、東海道沿いの宿場より昔の街並みを思わせるようなところが多く、この赤坂宿もその一つである。しかし、狭い道なのにビュンビュン飛ばす車には閉口・・。
 イチョウが見事だった子安神社に立ち寄ると、安産と育児に霊験ありとのことで、友人夫婦の安産祈願をしていくことに(後日談:12月上旬に無事男児出産)。その後、紅葉がきれいだという資料の言葉を信じて立ち寄ったお茶屋敷跡だが、その紅葉は色づきがいまいちだった。現在は牡丹園として有名なので、その時期に訪れてみたいものだ。
 再び街道に復帰後、脇本陣跡を見る。現在は、旅籠・榎屋旅館として現役だ。
赤坂宿の街並み 所郁太郎生誕地 歴史を感じさせる家屋〜つぶれそうです 銀杏の見事な子安神社
お茶屋屋敷跡 金生山〜かなり近いです 榎屋旅館〜かつての脇本陣跡 子安神社



■歴史遺産・矢橋家
 しかし、車の交通量が半端じゃない。しかも、マナーも良くない。車中心という物事の考え方を、誰にでも当てはめようとするのはやめて欲しい・・。そんなこんなで気分悪くなっている途中右手に大きな建物発見。
 貴重な歴史遺産の矢橋家だ。往時のままの建物が現存しているようだ。道が狭いこともあって、写真のフレームにおさめられないくらい巨大だ。

フレームに収め切れません


■赤坂宿の街並み〜路地を覗いてみる
 上記矢橋家のあたりは、資源が集中している。矢橋家の横を走っている路地があり、ちょっと覗いていると、こんなステキな景色が続いていた。電柱・電線が邪魔なので、是非地中化をしてもらいたいなぁ。いつまでも、この景色が残りますように。

一本裏に入るとこんなステキな道が続いています


■本陣跡公園で休憩

 上記路地の反対側にも道が続いており、谷汲山華厳寺へ続く街道となっている。それを示す道標も建てられている。その先右手にちょっとした公園。公園手前に本陣跡を示す石碑などがある。トイレも兼ねてちょっと休憩。
 再び歩き出すと、踏切がある。これも貨物線のようだが、現在は使われていないのだろうか。一旦停止する車がほとんどなかったので。
この辺りは、資源が凝縮されてます
谷汲道標
逆光で見づらい
本陣跡
紅葉が良い感じ
本陣跡公園
今も稼働しているのでしょうか
踏切



■赤坂宿をゆく その2〜赤坂港付近にて〜
 赤坂宿は、内陸部だが水運で栄えた町である。その舞台となるところは、現在赤坂港会館があるところ周辺だ。赤坂港会館は、明治8年に建てられた警察出張所の復元建物である。館内は無料で見学できるので、さっそく入館。館長がいたので、色々と話し込む。
 「昔は杭瀬川の川幅が25mあった」「赤坂港には、当時530艘(そう)の船があった」「昔は、川が蛇行しており、良く氾濫したものだった。そのため、川を2つに分けた」「赤坂は、石灰と大理石と化石のまちだ」「会館前の格子窓の下の方が白くなっているのは、石灰のためじゃ」「会館の(玄関の)床に化石が埋めてある。それを見て、もったいないという人もいる」「矢橋式日時計は、住民に人気があるんじゃ」等々・・。

赤坂港会館〜復元したものですが洋風建築がステキです

赤坂港会館 赤坂港跡 赤坂港会館の3階部を望む very tall な火の見櫓
赤坂港会館内部より 矢橋式日時計 下の方が白いのは石灰のため(と教えてもらった) very tall な火の見櫓



■今昔木曾街道六十九次−赤坂−
 宿場の東を流れる杭瀬川と奥に宿場の街並みが見られる広重の絵は、現在も構図としては似たような景色を見ることができるが、杭瀬川は度重なる氾濫のため、2つにわけられ、こちらの川は水量がかなり少ない。しかし、広重の描いた絵図内でも、何故か石が見えるほどの浅瀬になっており、その意味では差違がなくなっていると言える。
 ちなみに、現在の写真に写る常夜灯はここに移設してきたもので、その奥の赤坂港会館も此処にはなかったものである。
木曾街道六十九次 赤坂 広重作



■赤坂宿を離れて次なる宿場へ
 館長と話をしたおかげで宿場のイメージがアップした。ありがとうございました。ちなみに、港跡近くに東の御使者場跡石碑があり、宿場の終わりを告げている。宿場を後にすると、再び杭瀬川にぶつかる。こちらの方が水量が多い。また、川の土手に石碑があり、ホタルが見られることを知る。
 その先、小さな常夜灯のあるY字路にぶつかるので、左の細い道を進む。この先美江寺宿まで約2里(約8km)あるので、少し急がなければ。この時期は日が短いのであっという間に真っ暗になってしまうのだ。
 しばらく見所のない道が続く。途中、右手に一里塚跡石碑を見たのみ。大丈夫かと心配になるも、「この道は旧中山道」と書かれた案内板が至る所に見られて、心強い。道なりに進むと、交差点にぶつかるので、その手前の道を右折。そのまま大通りを横断し(信号ないので注意)、道なりに進む。クネクネとうねる道が続くぞ。ここは七廻り半と呼ぶようで、それを示す石碑もある。そのまま進むと、T字路にぶつかるので、右折する。
ホタルが有名だそうだ
杭瀬川
付け根のところに常夜灯が建っています
ここを左折
碑があるのみ
一里塚跡
この近辺でよく見られます
案内板
交差点手前に道があるので、そちらを道なりに進むのが正解
交差点手前を右折
曲がりくねる道
うねる道
確かにクネクネしてます
七廻り半道標
京に向かう人は、三廻り半道標を目印に左折
T字路を右折



■地元のおじいさんとの出会い
おじいさんと長話しました
【三廻り半道標】
 T字路を曲がったところに「中山道三廻り半」と書かれた石碑。これを撮影していると、前方から自転車に乗ってやってきたおじいさんが「中山道歩いているのか?」と問うてきた。しばらくこのおじいさんと雑談。
 「七廻り半のところはずっと松並木が続いていたが、戦争で油が必要になり伐採」「その昔、天皇陛下がここを通過した際、突っ立っていたら警察から『頭が高い』と言われた」「1kmおきに砂利が道脇に積まれていた(道に穴があいたら埋めるために)」「3年前に新しく道路が出来た」という街道関連の話から、「今の子供はおじいさんと接点がない。ワシが子供の時もワシの子供もなく、ようやくワシの代で初めてだ」等というおじいさん自身のことまで。

 貴重なお話、ありがとうございました。

■わかりづらい道をゆく

 貴重な地場の話を聞くことが出来たが、このままだと日が沈んでしまうぞー。道なりに進むと、最近出来たらしい県道の高架下トンネルをくぐり、道が分かれている。とりあえず、右の道を選んだが、一体正解はどれなのか未だに不明。次にまたもや3方向に道が分かれるが、ここは左の道が正しいようだ。私は真ん中の道を歩いてしまったが・・。
 平野井川沿いの土手を歩いていると、今度は道は2手に分かれる。資料を見ると、右の道が正しいようだが、左の道をオススメ。そのまま進むと、橋があるので渡る。川の土手には、黄色い花が一面に咲き乱れていた
ここは右に行ったが、真ん中の道が正解かも
わかりづらいところ
この辺りはわかりづらい
左の道へ
資料では右(上)の道だが、左(下)の道を行った方が賢明です
土手上の街道
対岸には黄色い花が一面に
平野井川



■小簾紅園〜紅葉堪能目的地としてのはずが
小簾紅園〜紅葉がきれいだという言葉を信じて・・
【小簾紅園】
 川を渡ってほどなく、右手に小簾紅園。かつては、呂久川(現・揖斐川)の船着き場があったところである。
 皇女和宮が揖斐川を御座船で渡られる際に、紅葉しているモミジをご覧になり「落ちて行く身と知りながらもみじ葉の人なつかしくこがれこみすれ」と詠まれたことから、この公園が昭和4年に開園したという。
 当時の和宮様のお心は、計り知れないものがあったろう・・。
 肝心の紅葉はと言えば、今年は温暖で気温が下がらないせいか、色づきもいまいち。

■揖斐川・・・アゲイン

 再び街道をゆく。
 良縁寺という縁起の良いお寺を左手に見つつ、揖斐川にぶつかる。美濃路以来2度目の渡河である。と言っても、鷺田橋が架かっているのでこれを利用する。ゆったりと流れる様を見つつ、無事反対側へ。この辺り、ちょっと説明しづらいのだが、川沿いに北に進み、砂利道になる前に右の細い道を進む
縁起がよろしい
良縁寺
その昔は渡し船があった
揖斐川に架かる鷺田橋
かつて美濃路放浪でも渡りました
揖斐川
ここは右折して、砂利道ではなく舗装路を行きます
土手下の道

■街道夕景

 土手を少し離れてから振り返ってみると、見事な夕景。ちょっと時間的には早い感があるけど。
 土手上を走る車のシルエットが個人的に気に入ってます。

こういう土手は、私の住んでいる近辺では見かけません


■日が傾きはじめた街道をゆく

 しかし、日が傾きはじめてきたなぁ・・・急がねば。細い道を歩いていると、工事中で通行止めになっている!?しかし、無視して先に進むと、橋が跡切れてホントに進めない。仕方なく、別の橋を渡って回避。しかも、その先もアクアパークなる新しい建物があり、街道は分断どころか、なくなりかけていた。市町村合併により、かつての巣南町は瑞穂市へとなっている影響のようだ。車通りのある道を進むと、真っ赤な橋があるので、これを渡ってすぐ右折。
 細い道をテクテク歩いていると、西日を浴びた鳥居のある神明神社。逆から見ると、西日に鳥居のシルエットが映えます(写真の上にマウスを載せて下さい)。その先、T字路があるので、道なりに右折。そこからほどなくして、川にぶつかる。
旧道が分断されています
アクアパーク
見事です。ここを渡ってすぐに右折
真っ赤な橋
神明神社〜鳥居が夕陽に映えます
神明神社
ここは道なりに右折
T字路を右折


■今昔木曾街道六十九次−みゑじ−
 美江寺宿の手前西側を流れる犀川と田園風景を描いているなんてことない絵である。現在は、川幅もせまく、田園風景も見られないことから、面白味のない構図となってしまっている。
木曾街道六十九次 みゑじ 広重作

■美江寺宿へ

 犀川の横には、千手観音堂。それを左手に見つつ、道はT字路にぶつかる。T字路の右脇には道標がある。ここを左折すると、いよいよ美江寺宿である。それを示すかのように、あるお店の前には、美江寺宿と書かれた看板が建てられていた。色づかいがきれいです。
犀川横にあります
千手観音堂
右脇に道標があります
T字路
T字路にあります。ここを過ぎれば、もうすぐ宿場
道標
あるお店の看板を撮影。色づかいが綺麗です
看板



■美江寺宿をゆく
 最初の印象は、「美江寺」という変わった名前を持つ宿場だ。奈良時代の初め、住民はこの地域を揖斐川等川の氾濫から守ろうとして、伊賀国にあった十一面観音をここへ写し、大伽藍(だいがらん)を建立して祀ったところ、川の流れが穏やかになったので、この寺を美江寺と呼ぶようになったという。粋な付け方だなぁ。
 さて、肝心の宿場内はというと、明治24年(1891)の濃尾大地震により街並みが壊滅したこともあって、かつて宿場だったという面影は見られない。しかし、美江神社手前の庄屋・和田家や連子格子窓の見られる酒屋など、一部歴史の感じられる建物も残っている。
 しかし、美江神社のところを右折した先に続く細い道は、車がビュンビュン。はぅ・・・。
美江寺宿の街並み 開蒙学校跡石碑〜本陣跡前 本陣跡 曲尺手となっているところ〜美江神社付近。左手に写るは旧庄屋和田家
美江神社 美江寺宿跡石碑〜美江神社境内にて 美江寺宿街並み〜酒屋付近 連子格子の旧家・酒屋
美江寺一里塚跡 美江寺宿街並み〜一里塚跡付近 小学校〜美江寺城跡 谷汲への道標



■第6日目終了!
樽見鉄道・美江寺駅〜真っ暗です
【本日の終着点・美江寺駅】
 車にビビリながらも、なんとか線路にぶつかったので左折。ほどなくして本日の終着点・美江寺駅に到着。明日は、ここからスタートだー。

 本日宿泊予定のホテルは岐阜駅前。美江寺駅からだとまず大垣駅に出て、そこからさらに乗り換えなければならないので面倒。考えた末に、美江寺駅手前にあったバス停からバスに乗って岐阜駅に向かうことにした。直行便があるのだ。

 待つこと30分、バスがやってきたが、運転手は私の存在に気づかずに通過しようとしていて、あやうく乗れなくなるところだった。というオチがついたのは、いつものことなのであった。(つづく)
→第七日目|美江寺−岐阜 へ


歩数計
カロリー kcal
距 離 km
時 間 7:37〜11:45
支 出 交通費|−−円
飲食費|−−円
その他|−−円

2004.12.12update


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