#第5日目|醒井−関ヶ原 平成16年(2004)10月17日(日) 天気:快晴


中山道行程図〜第五日目|醒井−関ヶ原



■寝物語の里−近江路から美濃路へ−
 楓並木を後に、ゆるゆる歩いていると集落が見えてきた。長久寺集落だ。ここは、俗に「寝物語の里」と呼ばれており、近江国と美濃国との国境である。現在の滋賀県と岐阜県との県境でもある。
 「寝物語の里」とは、国境にある近江国の家人と美濃国の家人が、家の壁越しに寝ながらにして物語をすることが出来たということに由来している。ほのぼのした話だなぁ。
 下の写真の下段の右から2番目の写真に見える溝が国境で、平成15年11月12日に滋賀・岐阜両県の補助金により、寝物語の里・県境水路として整備されている。水路の横には国境を示す標柱が建てられているが、現在建てられているのは二代目で、初代は柏原宿歴史館に置かれている(下段左から2番目の写真)。

 さあ、いよいよ近江路から美濃路へ、そして1府2県目となる岐阜県に突入だー!(※ここで言う美濃路とは、美濃国の路(みち)のことを指します)
寝物語の里碑 寝物語の里の集落 寝物語の里碑 二代目標柱
初代標柱基礎石 初代標柱(柏原宿歴史館にて) 近江国・美濃国の境 現在の寝物語の建物


■今昔木曾街道六十九次−今須−
 京を出発して美濃国最初の宿場町は今須宿だが、広重は木曾街道六十九次で、近江国と美濃国の境である寝物語の里を題材に描いている。国境には、近江屋(近江国)、両国屋(美濃国)という茶屋が並んでいたというが、現在では普通の民家が並んでいる(写真には写っていません)。
 その民家があるためか、広重の描いている国境を示す標柱(棒示杭)は、現在右側に建てられている。ちなみに、方角は、近江側から美濃側を見たもの。
木曾街道六十九次 今須 広重作


■酔狂な人の話
昔は平和でしたなぁ・・
【車返しの坂】
 滋賀と岐阜のナンバープレートが混じる寝物語の里を後に先を目指す。国道を横切り、すぐ右手に、「車返しの坂」と書かれた案内板と坂の上に石碑がある。
 南北朝の頃、二条良基なる人物が、不破関屋の荒れた庇(ひさし)から洩れる月を見ようと、京の都から牛車に乗ってやってきたが、すでに屋根を直したと聞き、引き返したという伝説が残っている。

 ホンマ酔狂な人だ・・。

 (ちなみに、都から高貴な方がお見えになると聞いて、屋根を直してしまったというオチがあるらしい)


■今須宿をゆく
 車返しの坂を後に、交差点にさしかかると右手に常夜灯。この辺りから今須宿が始まる。なかなか立派な家屋が続く、落ち着いた街並みが続いており、法善寺真宗寺等には立派な鐘楼が見られるなど、山あいの落ち着いた集落を形成している。
 そんな今須宿の大きな見どころは、やはり問屋場であろう。往時は、7軒も問屋場があったそうだが、現在では山崎家が現存しているのみ。しかし、現存した問屋場は、美濃国では唯一のものだということで、大変貴重な遺構です。遠くから見ても、何かしらの役割を果たしていた建物ではないか、とすぐに分かりました。
 有名な妙応寺は、暑さにやられ気味で、遠くから撮影するにとどめてしまいました・・。
今須宿の街並み 法善寺 今須宿の街並み 真宗寺
今須宿の街並み 問屋場 問屋場 宿場石碑<本陣跡
妙応寺 問屋場 問屋場 宿場のはずれに常夜灯


■交通量の少ない国道から人里離れた裏道へ
 右手に常夜灯のある辺りが宿場のはずれ。そこから道を登るとほどなくして国道に合流。お?全然車が走っていないぞ。道の左側には歩道がないが、この先国道を逸れて左折するので、交通量も少ないことから渡っておくことに。渡ってから、なにげに今渡ってきた側を見ると、一里塚がっ!間違いなく復元されたものだと思うが、予期せぬ史跡の出会いにビックリ。っていうか、よく勉強しなきゃ<自分
 結構な急勾配の国道を200mほど進むと、左に逸れる細い道があるのでそちらへ進む。生い茂る緑の中を歩くが、クマが出てこないかとビクビクしながら歩く。特に、最近は人がクマに襲われたという話をよく聞くようになり、余計にビビリが入る。今須峠を越えると道は下り始め、線路沿いに進むようになる。道なりに進むと、その線路に架かる踏切を渡って反対側へ。
車通りが少ないです
国道に合流
国道沿いにこんもりしています
一里塚
ここから山の中の道へ
国道を逸れて左折
人も車もなく、外界から隔離された感じ
線路沿いの道


■時代をまたぐ史跡が
 道を下り続けると、ようやく集落が見えてきた。鎌倉・室町期には間の村(宿)として栄えたという山中集落だ。Y字路があるので、左に進むと、常磐御前の墓。常磐御前は、義経の母で、都を落ちて東国へ下る途中、ここ山中集落で土賊のために殺害されてしまった。そのため、里人がこれを哀れんでお墓を建てたと伝えられている。
 先に進む。道は、先ほどY字路で分かれた道と合流。合流地点に鶯の滝。街道沿いの名所だったそうだ。その先には、黒血川。正式には、山中川と呼ぶが、壬申の乱(672)により、血で黒々と染まったということから、この名が付けられている。それって、そうとうドクドク流れたってことだよなぁ・・・・。
ポツポツ家屋が見えてきました
ようやく集落が・・
悲話です
常磐御前のお墓
マイナスイオーン
鶯の滝
壬申の乱という古い歴史が残っています。ここで街道を逸れて、川沿いに進みます
黒血川


■義の武将〜大谷吉継を偲ぶ〜
 先ほどの黒血川のところに「大谷吉継の墓600m15分」と書かれた案内板が。迷ったが、吉継は好きな武将、めったに来れるものではないと訪れることに。300mほど歩き、右折して山道へ。歩いて10分ほどして、到着した。

 国史跡と書かれた立派な石碑の奥には、吉継のお墓と、その家来・湯浅五助のお墓が並んで建てられていた。私は、言葉なくお墓の前に立ちすくしていた。肩で大きく呼吸する音だけが森にこだましているようだった。合掌・・。

大谷吉継のお墓。左は、家来の湯浅五助のお墓


 吉継という人物、私も本当のところどういう人物だったのか知らないが、その昔、秀吉が「吉継に100万の兵を預けてみたい」と言ったとか。武将としての実績がないため、世間的には文官のイメージが強いかもしれないが、武官としての実力も秘めていたようだ。
 しかし、それよりも大事なものがある。「義」である。親兄弟でも信用できないという時代の中、石田三成との友情の中で散っていったその姿に、今も昔も多くの人に好かれている。私もそのうちの一人なのは言うまでもない。
 ちなみに、吉継は、真田幸村の義父でもある。


■大谷吉継という人物
小早川の裏切りさえなければ・・・
【大谷吉継陣屋跡】
 お墓を後にする。途中で同じ西軍の宇喜多秀家陣跡へ続く道があったが、1kmもあるとのことでまたの機会にして、吉継の陣跡を見に行く。石碑の周りの囲いが、新しく整備されていた。

 吉継は、同じ西軍に属していた小早川秀秋、脇坂安治、朽木元綱、赤座直保の裏切りにより、壮絶な戦いを繰り広げたものの、最終的には自刃を余儀なくされた。前述の小早川の裏切りが、関ヶ原の戦いの勝敗を決したと言われている。しかし、小早川は、3年後に21歳という若さで狂死している。

 陣跡の真下に建物が見えたので、下ってみると、神社の境内。境内を抜けると鉄道線路があり、それをわたると、そのまま街道に復帰。一部歩いていない区間が出来てしまったがノープロブレム。


■街道風景〜関ヶ原
 国道に合流。そこに架っている歩道橋を渡って反対側へ。途中、これから歩く道、そしてこれまで歩いてきた道(写真の上にマウスを載せて下さい)を見てみる。こうして見てみると、国道により見事に分断されているのがわかると同時に、往時の様子は別にして、その道の細さが、街道らしさを醸し出している。

街道は続く・・・


 歩道橋を渡り終えたところ右手に段々畑。それを横目に街道をゆく。Y字路があるが、坂を登るのがイヤで左の道へ。そのまま進むと交差点にぶつかるが、ここで左に逆戻り。そこには、矢尻の井。壬申の乱の時大海人皇子が矢尻で水を求めて掘った池だと言うが、今はただの穴。
 そのまま先ほどの交差点を直進し、道なりに進むと藤古川。関の傍を流れていることから関の藤川と呼ばれているこの川は、軍事上の要害の地であると同時に、歌に詠まれているのだ。
狭い土地ながら見事でした
段々畑
今はただの穴
矢尻の井
直進して下り坂を
交差点
昔から歌人に歌われたという
藤古川


■不破関
 藤古川を渡り、坂を登ると、三叉路があり、この辺りに不破の関があるはずが・・見あたらない。とりあえず、近くの不破関資料館(100円)に立ち寄ることに。受付の横にガイドブックなどが販売されており、それを興味深く見ていたためか、建物に入ってから、受付の女性が「これどうぞ」とウォーキングマップをくれた。どうもありがとうございました。
 資料館の前では、史跡公園を整備中で、来年の2月末に完成予定だ。そして、再び三叉路に。諦めて先に進もうとした時、民家の中に資料で見覚えのある景色が目に入った。まさに不破関跡
 不破関は、伊勢の鈴鹿関、越前の愛発関(あらちのせき)とともに古代の三関の一つである。
地方にありがちな資料館
不破関資料館
完成はH17.2.28を予定
不破関史跡公園整備中
個人宅内にある不破関跡
不破関跡
街道からはここに案内板<不破関跡
街道沿いの不破関案内板


■関ヶ原をゆく
 今日は、次の垂井宿まで歩く予定だったが、10月とは思えぬ暑さのため、この関ヶ原までとしよう。とりあえず、駅に着くまで、関ヶ原の史跡を巡ることにする。

 1600年に起きた関ヶ原の戦いは、単なる戦ではなく、その後の歴史を大きく動かしたターニングイベントであると同時に、様々な人間模様が描かれたドラマでもある。あくまでも小説だが、司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」はオススメ。
 吉継のところで前述している裏切り者の名を背負った小早川秀秋は、松尾山に陣取っていた。そこに続く案内板など横目に、街道をちょっと奥にいったところには、不破関関庁跡と兜石。割と広めの道をのんびり進むと、右手に井上神社の石碑があるので、そこを左斜めの道へ。そのまま国道に合流。
裏切り者の山へ
小早川陣へ
ちょっと入り組んだところにあります
不破関関庁跡と兜石
車もほとんど通りません
のどかな道
井上神社の道標あり
ここを左折


■西首塚
初めて石田三成の幟を見ました<大一大万大吉
【西首塚】
 えらく交通量の多い国道をしばらく歩くと、左手に西首塚。戦死者の遺体を葬ったところであり、胴塚とも呼ばれている。
 国道から塚に至る間には、両側に幟が立てられており、石田三成の「大一大万大吉」の幟も。


■今昔木曾街道六十九次−関ヶ原−
 中山道の宿場、関ヶ原は、北国脇往還や伊勢街道との追分でもあったことから、交通の要衝として往時より賑わっていたという。一方、壬申の乱や関ヶ原の戦いなど、歴史のターニングポイントとしての位置づけもあったことから、多くの史跡が点在しているが、広重が描いた関ヶ原の絵図は、なんてことない街道風景。
 資料によると、梨の木川の東にある西町付近から東を向いて描いた絵だろうという言葉を受けて、撮影もおこなった。
木曾街道六十九次 関ヶ原 広重作


■中山道第5日目終了!
 なかなか立派な家の続く宿場内には、かつて本陣にあったスタジイが移されているという八幡神社、立派な門を有する脇本陣跡旅籠ます屋なども見られる。
 道路標識に従って国道をはずれて左折するとほどなく関ヶ原駅。駅前の電光掲示板には現在の気温が・・うぉー24℃もあったのか。
 駅に着くと、タイミング良く電車が来そうなので、急いで帰りの切符を手配してもらい、あたふたと関ヶ原を後にした。(つづく)
本陣の庭にあったスタジイが移されているという
八幡神社
門は立派
脇本陣跡
現役の旅籠
旅籠ます屋
10月中旬で24℃かよー
関ヶ原駅


■おまけ
ど、どんなお肉なのでしょう・・・・・絵が妙にかわいいので、可哀想になってきてしまいます
【ま、まじですか!?】
 宿場内のお肉屋さん。なにげに通り過ぎようとしたその時!
 驚愕のものを発見してしまいました(写真の上にマウスを載せて下さい)。

 ・・・・・・・・これって、普通にありなんですか?
→第六日目|関ヶ原−美江寺 その1へ


歩数計 22,964歩
カロリー 1,144.5kcal
距 離 16.07km
時 間 7:24〜14:25
支 出 交通費|−−円
飲食費|−−円
その他|−−円

2004.11.13update


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