#第4日目|愛知川−醒井 平成16年(2004)10月16日(土) 天気:快晴


中山道行程図〜第四日目|愛知川−醒井


■中山道放浪第4日目プロローグ
岐阜羽島駅付近より〜秋らしい空です
【岐阜羽島駅付近】
 2004年秋に入って、これまで中山道3日、日光街道1日の計4日歩いたが、うち3日雨に降られている。いずれも一時的なにわか雨だったが、晴れ男を自負している私にとっては、大変不本意であり屈辱的な結果だ。

 そんな中、ようやく秋らしさが出てきた10月中旬の週末、久しぶりに天気に恵まれるとの情報を得たので、晴れ男復活を印象づけるべく荷物片手に旅立った。
 しかし、早朝の東京はまさかの曇り空。「またかよぉ・・」と思っていたら、豊橋を過ぎたあたりから晴れ始め、名古屋駅でこだまに乗り換えて、岐阜羽島駅付近を通過する頃には、天高く秋らしい空が見られ、ホッと一安心。


■恵智川宿から出発
 米原駅到着後、近江鉄道に乗り換え。米原から目的地・愛知川駅まで640円だが、週末はフリーキップが使用可能らしく、ちょっとお得(フリーキップ:550円)。約35分で愛知川駅に到着後、さっそく出発!(9:16)。
 まずは、前回の終了地点・巨大アーチに向かい、そこから街道を東に向かう。右手に河脇神社を見つつ、右から来た道と合流。合流地点に二股道標。ここで中山道を西へ向かって歩いてるらしき夫婦がいたのだが、道標の写真を撮るのに忙しそうだったので、声をかけずに道標だけ撮影して先を目指す。小泉さんが多い昔からの家屋が多く見られる中に石部神社
巨大アーケード
巨大アーチ
河脇神社
河脇神社
国道は車の交通量が多い・・・
二股道標
石部神社
石部神社


■歌詰橋
歌詰橋
【歌詰橋】
 テクテク歩いていると、橋が前方に。宇曽川に架かる歌詰橋だ。この歌詰橋、とても面白い伝説が残っている。

 「東国で平将門の首をとった藤原秀郷が凱旋でこの橋に来たとき、後ろから将門の首が追っかけてきたので、秀郷が首に向かって『歌を一首』と言ったところ、歌に詰まった将門の首は橋の上に落ち、歌詰橋と名付けられた。」とのこと。

 ありえない話ですが、こういう話、好きです。
東に向かって
歌詰橋
歌詰橋に関する伝説について説明
説明版
宇曽川沿いのサイクリングロード
サイクリングロード
宇曽川
宇曽川


■江州音頭発祥の地
 歌詰橋を渡り、300mほど歩くと左手に江州音頭発祥の地碑など、たくさんの石碑が建てられ、東屋などもある。恥ずかしながら、こうした地域の伝統・文化に疎いため、江州音頭というものを初めて知ったのだが、有名なのだろうか。
 その先には、立派な家屋。又十屋敷だ。北海道で回船業を営んでいた近江商人・藤野喜兵衛の旧宅。資料館として公開されていたらしいのだが、素通りしてしまった。又十屋敷の向かいには、名札のなき寺。手持ち資料には、西還寺と書いてある。鐘楼が立派だ。
たくさんの碑
江州音頭発祥の地碑等
碑がたくさん
江州音頭発祥の地碑等
立派なお屋敷
又十屋敷
立派な鐘楼
西還寺

 しかし、この道は車の交通量が多く、しかもスピードを落とさない。地方の車依存は仕方ないことだとしても、狭い道で人が歩いていたら減速するとかよけるとかするのが常識なのに、マナーがなってない。教習所で習わなかったのだろうか。
 かつて、この付近に池があったことから復元された金田池の横には、派手な建物・ニシキ會舘。そこを離れて歩き出すと、どこからともなくトイレの香り。見回してみると、やはりキンモクセイ。良い香りなのだが、ついついトイレを想像してしまう・・。さらに進むと、左手に奥行きのある立派な建物
ちょっと池とは呼べないなぁ・・
金田池
写真ではわかりづらいですが、派手な建物です
ニシキ會舘
ついトイレを想像してしまいます
キンモクセイ
奥行きもあります
立派な家屋


■伊藤忠兵衛屋敷跡
 車の往来の激しさに辟易しつつ、道脇を歩いていると右手に板塀の続く豪邸が見えてきた。日本有数の大手総合商社・伊藤忠商事及び丸紅の創始者である伊藤忠兵衛屋敷跡だ。無料で内部を見学できるとのことで、さっそく拝見させていただくことに。記帳後、入口に誰もいなかったので、「こんにちは〜」と声をかけるも、「おー」という声がどこからかするのみで誰も出てこない。ならばと、失礼してゆっくりと見学させてもらった。
 和を基調とした江戸時代の豪邸であるが、お風呂は洋式など、時代の最先端をいく商社マンらしさをのぞかせている(ただし、洋式風呂導入は明治40年代)。宿場町ならば、本陣、脇本陣クラスだと言えよう。
 入館料:無料
 開館時間:10:00〜16:00
 開館日:火・木・土曜日
街道に面した板塀 玄関 実際使用されていた提灯 かつての帳場
洋式風呂 格子窓 実際使用されていた提灯 玄関から街道を望む


 忠兵衛屋敷跡を後に先に進むと、右手に伊藤長兵衛屋敷跡石碑くれなゐ園(忠兵衛の生誕地)など、伊藤家関連の石碑が続く。それらが一段落すると、信号のある交差点にぶつかり、右手には豊郷町役場。一時期話題に上がっていた町長のいる役場だ。そのことは、後で記すことにして、ここは素通りして先を目指す。その途中、「中山道 一里塚の郷石畑 ごんろく通り」と書かれた案内板を発見。何のことかわからず、ここも素通り。
伊藤長兵衛は丸紅の初代社長
伊藤長兵衛屋敷跡
丸紅関係者が忠兵衛を偲んで築造
くれなゐ園
一時期話題に上がっていた町長の居る役場
豊郷町役場
一里塚の郷って?
一里塚の郷石畑


■石畑は間の宿だった!
 先に進むと、巨木の生い茂る八幡神社。その脇に、先ほどの案内板と同様「中山道 一里塚の郷 石畑」と書かれた石碑がある。その横の説明版を読んで納得した。まず、先ほど通過した役場付近に一里塚があったこと、そしてこの辺り石畑地区は、かつて立場があり、間の宿であったこと。横には、そのことを示す石碑も建てられている。大樹の木立の中、東屋も整備されており、休憩するのに良い所かも。
参道入口は、街道に面していない神社
八幡神社
近くには東屋も
一里塚の郷石碑
説明版
説明版
この辺りは間の宿だった
間の宿を示す石碑


■豊郷小学校前の松の木
 神社を後にしてほどなく、前方に1本だけぽつねんと松の木が。この辺りに松並木が続いていた名残なのだろうか。そして、この松の木の前に、歴史上大変貴重かつ重要な建物がある。豊郷小学校だ。

街道沿いの松〜豊郷小学校前



■豊郷小学校解体問題について■
豊郷小学校
【豊郷小学校】
 豊郷小学校は、大変歴史が古い建物で、昭和12年(1937)ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計により建設された、滋賀県下では初の鉄筋小学校であり、当時東洋一とも言われた校舎だという。その歴史的、そして文化財的にも貴重かつ価値のある建物を、豊郷町の大野和三郎町長は、新しい校舎を建設し、現校舎を取り壊そうとして、小学校の保存を願う地元住民との衝突がメディアを賑わせていた時期があった。
 結局、旧校舎はそのまま飲食店や特産物販売店などで構成する複合施設として活用し、新しい校舎を建設する方向で動いているようだが、果たしてこれで良かったのだろうか。はっきり言って、これまでの経緯も含めて、現在の状況が全く分からない。役場のホームページは、もっと情報公開すべきだ。


■恵林寺参拝は叶わず
 釈然としないまま小学校を後に先を目指す。ところどころに「豊郷小学校を登録文化財に」「取りもどそう豊郷小の原風景」などと書かれた立て看板が見られる道の途中、長々と板塀の見られる道が続く。その先右手に木造の公民館を見つつ、恵林寺などを見学しようとするも、街道からの入口はなく、あきらめて先に進む。本当は、山梨県塩山市にある武田家の菩提寺と同じお寺名なので、訪れてみたかったんだよなぁ。
 信号のある交差点左手に阿自岐神社へ続く鳥居。ここから800mほど離れているとのことで、参拝は断念。
絵になります
どこまでも続く板塀
公民館です
木造の建物
阿自岐神社への参道
阿自岐神社へ続く鳥居


■一面の秋桜畑(コスモス畑)
 交差点を越え、見所もしばらくなさそうなのでここから速度を速めるかと思った矢先、右手に秋桜(コスモス)が見えたので行ってみると、一面秋桜畑!!!実は、近江鉄道に乗っていた時にすでに発見していたので、絶対に見に来ようと思っていたので、ゆっくりと秋桜畑を堪能する。ちょうど見頃で一つ一つの花びらも大きい。こんな素晴らしい景色に出会えて、身も心も清々しくなってきたぞー。

一面に拡がる秋桜畑

 秋桜って、とてもやわらかさを感じられる秋らしい花だけど、どこか凛とした芯のしっかりしたものもあって、好きな花の一つです。というより、知ってる花の数少ない中の一つだからだったりして・・。
 ちなみに、秋桜畑をウロウロしている間に、先ほど参拝出来なかった恵林寺も裏手から入れることが判明。しかし、秋桜に気持ちを奪われているうちに、訪れる機会を失してしまったのだった。
凛とした佇まいを見せる秋桜 奥には恵林寺 ピンク系が多し 見頃です


■立派な松並木〜出町地区
 街道に復帰。しばらく見所なく歩いていると、米穀会社の倉庫前に「中山道」と書かれた石碑を発見。なんでこんなところに?・・と思いつつも、中山道に対する取り組みが嬉しかったり。
 水車のある公園を左手に見つつ、信号のある交差点に。交差点には出町と字名が書かれており、その先には立派な松並木が続いている。その木々の間から見える工場敷地内には、役目を終えたと思われるバス停標識がたくさん放置されていた。なので、勝手にバス停標識の墓場と命名。
見つけた時は嬉しかった〜
中山道と書かれた石碑
水車のある公園
水車のある公園
この辺りの松並木は見事
出町の松並木
使命を終えたバス停達
バス停標識の墓場


■おいでやす彦根
 松並木の続く道の先には、「おいでやす彦根」と書かれた中山道モニュメントが建てられている。これは、彦根市の取り組みで、どうやら先ほど見た中山道と書かれた石碑も彦根市の取り組みのようだ。モニュメントの上部には近江職人を模したものらしきオブジェが見られる。この辺りは、葛籠(つづら)地区と呼ばれるところ。この地区の取り組みは素晴らしく、自家製の観光案内マップなどを作成しているようだ。

 余談だが、高校時代、葛籠貫という友人がいた。けんかっ早い男だったが、竹を割ったようなさっぱりした性格で、憎めないやつだった。今は確か関西方面にいるはずだが、元気に過ごしているだろうか。

東へ続く街道脇には、「中山道モニュメント」



■葛籠地区をゆく
 雰囲気の良い街並みが続く。裏道を覗いてみると、これまた良い感じの路地が続いている。しかし、写真には写っていないが、相変わらず車の往来は激しいのは追記しておかねば。
 先に進むと、左手に産の宮井戸。足利義詮(尊氏の子)の側室が産気づき、ここで出産するも亡くなってしまう。それを悲しみ生母(側室)は髪をおろして尼となり、ここに一庵を結び(松寺)、子の菩提を弔ったという。その向かいには、茅葺き屋根の家屋がキンモクセイとともに、秋の風景を作り出していた
雰囲気の良い街並み
雰囲気の良い街並み
雰囲気の良い路地裏
良い感じの路地裏
南北朝時代に関連する史跡
産の宮井戸
秋らしい光景
キンモクセイと茅葺き屋根


■今昔木曾街道六十九次−高宮−
 しばらく細い道を進み、道が開けたところ前方、犬上川に橋が架かっている。この橋の部分がかつて広重が描いた高宮宿の風景である。西から橋向こうの高宮宿のある東に向かって描いたものだ。犬上川は、水量の少ない川で、そんな時は橋板がはずされていたようだが、広重の絵はまさにその状態である。現在は、歩車離別の立派な橋が架けられている。
木曾街道六十九次 高宮 広重作
手前には「高宮宿」と書かれた碑が
歩行者・自転車専用
恵智川に続きむちんばし
むちんばし石碑
まさに現在の風景
横から
きれいな水です
犬上川


■いよいよ高宮宿へ
 高宮橋を渡り終えた左手にむちん橋地蔵尊。右手には「むちんばし」と書かれた石碑も建てられている。この辺りから高宮宿だろうか。行く先を見てみると、よさげな街並みが続いている風だ。さっそく歩き出した途端、左手に美味しそうなパンを売っているパン屋さんがあったので、立ち寄る。パンを購入後、休憩すべき場所を求めさっそく歩き出すと、早々に昔ながらの街並みらしき風景に出会う。
高宮橋脇に
むちん橋地蔵尊
いよいよ高宮宿へ
地蔵尊横の交差点
マジ美味かった!
パン屋
良い感じです
よさげな街並み


■円照寺
 予想外に良い雰囲気を醸し出している街中を歩いていると、左手になにやら立派なお寺が現れた。手持ち資料を見てみると、円照寺と書いてある。かつて明治天皇も立ち寄ったらしく、石碑が建てられている。また、境内には明治天皇ゆかりの松や家康の腰掛けた石などがあるようだが、家康の腰掛けた石は見つからなかった。
立派な表門 表門から拝殿を望む 表門から拝殿を望む 明治天皇ゆかりの松
明治天皇行在聖跡 表門から拝殿を望む 表門から拝殿を望む 表門から街道を望む


■高宮宿
 高宮宿は、訪問前では多賀大社の追分門前宿場町ぐらいのキーワードしか感じられなかったのだが、実際に足を踏み入れてみて、その言葉がものすごい奥深いものになっていくのをあらためて感じた。それは、今でも残されている多くの歴史ある家屋だけではない、例えば郵便局のファサードの統一など、自分たちの町を誇りに思うような空気が感じられるのである。

本陣跡。表門のみ現存 脇本陣跡 格子窓かつ卯だつの見られる家屋 提灯屋さん
芭蕉宿泊地 多賀大社の一の鳥居 多賀大社の一の鳥居 提灯屋さん
布惣跡 多賀大社の一の鳥居 多賀大社の一の鳥居 高宮神社
景観に配慮された高宮郵便局 景観に配慮した高宮郵便局 格子窓の家屋 地蔵堂

 多賀大社の一の鳥居を見ているときに12時を告げる時報が流れてきた。なので、宿場の東の方に位置する高宮神社で30分ほど休憩兼昼食。今日は天気が良くて気持ちよい街道歩きが出来ているが、ここまで3時間で9kmといつもながらのスローペース。まぁ、ぼちぼち行きますか!(12:40)
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2004.11.4update


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