#第3日目|武佐−愛知川 平成16年(2004)9月20日(月) 天気:曇のち晴
■武佐宿 人っ子一人いない街道をゆっくり歩く。まだ目覚めていない街道は、とても静かで、空気もおいしく、心地よい空間を醸し出している。朝は、良いものだなぁーちょっと眠いけど・・。ほどなくして、高札場跡と書かれた手書きの案内板。地元の武佐小学校卒業生が作成してくれたもので、大変微笑ましい取り組みだ。この先、至る所で見かけることができる。ちなみに、この高札場跡あたりが武佐宿の西の入口にあたる。 |
■風情の感じられる老蘇地区をゆく 宿場を抜け、同じような街並みの続く一本道をゆく。車は全く通らず、気持ちよいはずだが、この辺りから太陽が顔を出し始め、やはり今日も暑くなってきた。また日焼けしてまう・・・「どうせ雨降るんだ」と言って、日焼け止めを持ってこなかったのは失敗だった。しばらくゆくと、左手に泡子延命地蔵の碑。そこに書いてある案内板を読むとなかなか変わった由来があり、思わず苦笑してしまった(いずれどこかに記載します)。 |
泡子延命地蔵碑 |
立派な標柱 |
よさげな街並み |
東光寺 |
鎌若宮神社 |
茅葺き屋根 |
奥石神社 |
老蘇の街並み |
■老蘇地区を後に
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■観音寺城を左手に 手持ちの資料を見ると、前方に見える山がかつての観音寺城跡だと書いてある。観音寺城と言えば、戦国時代六角家の居城であったが、信長に攻められている。やはり戦国時代、山城が多かったのだな〜と実際に目にしてあらためて実感。再び国道に復帰し、交通量の多い国道沿いを歩く。国道と平行に走っていた新幹線の高架下を通過し、左斜めに進む細い道があるので、国道を離れ裏道へ。この細い道を歩いている途中で五箇荘町へ。再び国道に合流する手前左に清水鼻名水。ここの水は美味しいのか、大きなポリタンクを持った地元民らしき人が訪れていた。なので飲めなかった・・。 |
観音寺城跡 |
新幹線高架下を通過 |
国道から裏道(左)へ |
清水鼻名水 |
■近江商人の街へ
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■五箇荘の近江商人 石碑を後にすると、少しだけ松並木。この辺りは、かつて松並木が続いていたのだろうか。道幅は割と広いが車通りの少ない道を歩いていると、茅葺き屋根の家屋が目立つ(下の写真の茅葺き屋根2の方は、かつてういろうを売っていたお店)。 |
少しだけ松 |
茅葺き屋根1 |
茅葺き屋根2 |
大郡神社へ続く参道 |
かつての面影 |
大きな常夜灯 |
釣鐘 |
ポケットパーク |
■五箇荘町→(消滅)→東近江市へ(H17.2.11) 五箇荘町は、近江商人発祥の地として知られており、それがため落ち着いた街並みを今でも見ることができる。特に、街道沿いではないところに、その真骨頂を感じられるようだ。しかし、その町名も、平成17年2月11日に平成の大合併により消滅してしまうようだ。五箇荘町役場に横断幕がかかっており、周辺の八日市市、永源寺町、愛東町、湖東町と合併し、東近江市となるとのこと。こうして、また一つ歴史が消えていくのかな〜と、寂しくなってしまった。 |
五箇荘町役場 |
茅葺き屋根 |
踏切横断 |
愛知川手前に常夜灯 |
■今昔木曾街道六十九次−恵智川− かつて広重の描いた絵は、現在ほぼ同じような構図を眺めることができる。 |
■そろそろ恵智川宿 愛知川にかかる御幸橋を渡り終えたところ右手に、出来たばかりかと思うような新しさが目にまぶしい祇園神社。それを横目に、緩やかな下り坂となっている国道沿いを歩く。下りきったところ右手に「中山道愛知川宿」と書かれた立派なアーケードが架かる交差点。その交差点の左手片隅に一里塚跡の石碑。 |
祇園神社 |
もうすぐ愛知川宿 |
一里塚跡 |
■恵智川宿 立派なアーケードをくぐって恵智川宿へ。大きな特徴のない街並みが続くところのように見えるが、その道の細さが、かつての宿場町を物語っているとも言える。この宿場で目立っていたのは、宿場に入ってすぐ目に飛び込んできたかつての旅籠・竹平楼。今も現役の料理旅館である。門の右側に明治天皇御聖蹟と書かれた石碑があったが、あいにく植木の剪定中だった。 |
■3日連続の中山道終了!
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→第四日目|愛知川−醒井 その1へ |
歩数計 | 16,031歩 |
カロリー | 797.8kcal |
距 離 | 11.22km |
時 間 | 7:36〜10:50 |
支 出 | 交通費|−−円 飲食費|−−円 その他|−−円 |
2004.10.07update